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2月 24, 2013の投稿を表示しています

3月9日講演「古墳時代の玉と祭祀」

次回の考古学研究最前線の講演は、古墳時代の玉と祭祀(さいし)について、貴志(きし)・下所(しもんじょ)遺跡(三田市)を発掘し、1890点に及ぶ臼玉( 古墳時代の祭祀 用の玉。まれに装身用とみられるものもある。厚さ2~3ミリ、径5ミリ前後 。形が茶臼 に似ていることからの命名 。)を取り上げた 当館学芸員池田征弘が担当します。 貴志・下所遺跡の発掘状況をはじめ、臼玉についての蛍光X線分析による産地推定成果などを交えながら、この頃の祭祀の状況が語られます。 考古博物館スタッフブログでの貴志・下所遺跡の記載は ここ にあります。      「兵庫考古学研究最前線  2012 」 講演「古墳時代の玉と祭祀 」  当館学芸員 池田征弘                            平成25 年3 月9 日(土) 13:30 ~ 15:00                       当館講堂にて 当日 (13:00より) 受付、定員120名、入場無料

播磨国風土記 ポスターは語る

風土記 1300 年記念 特別展「 播磨国風土記 - 神 ・ 人 ・ 山 ・ 海 - 」 2013.4.20(土)~6.23(日) まず目につくのがポスター上部の赤色から下部の水色までのグラデーションだと思います。 神のいる天上から青い海まで、間に人がいて、山もある 神・人・山・海 のイメージです。 大きな黒い題字「播磨国風土記」は、毛筆で書いた後、明朝体を部分的に配置し、簡潔な中にユーモア溢れる表現で記された播磨風土記の題字を、古風な中にインパクトが出るよう創作しています。 次は、播磨国風土記を示す3つの考古遺物です。 播磨国風土記の特徴は、現存している五カ国の風土記の中で、渡来人に関わる記事が多いことがあげられます。 ポスターの真ん中を飾るのは渡来人の海を渡る乗り物である船、 長原高廻り2号墳(大阪市 )出土の 船形埴輪 です。 高廻り2号墳は、 1987 年に大阪市平野区の長原遺跡で行われた発掘調査で、1号墳と共に発見されました。 両古墳とも埋葬施設は失われていたものの、周溝から多くの埴輪が出土し、 1992 年に 33 点の埴輪が国指定重要文化財となっています。 ポスター上部の装身具は、渡来人がもたらした文化を示す 西宮山古墳(たつの市) 出土の 垂飾付耳飾 です。 西宮山古墳はたつの市日山の兵庫県立龍野高等学校の運動場となっているところにあった古墳です。 垂飾付耳飾は古墳時代の中期に朝鮮半島から伝わったもので、精巧なつくりの装身具です。 ポスター左下のユーモラスな相撲を表す像は、 勝手野6号墳(小野市) 出土の 装飾付須恵器 の一部分です。 この須恵器は、小野市の山陽自動車道建設地内の発掘調査をしていた勝手野古墳群から発掘されました。 揖保郡の条に、相撲の神様、野見宿禰(のみのすくね)が、播磨国の立野(兵庫県たつの市)で病死し、その地に埋葬されたことが記述されています。 相撲の像の右には漢字の 「品太天皇(ほむだのすめらみこと)」 の記載があります。 播磨国風土記には多くの天皇が登場しますが、品太天皇は冒頭の賀古郡での国見の記述をはじめ一番多く登場します。 また、像の左には新羅の国からやって来て、在地の伊和大神(いわのおおかみ)と争った 「天日槍(あめ

3月2日(土)石野館長講演 ~播磨国風土記について~

東播磨流域文化協議会の今年度最後となる 第6回流域文化サロン が、考古博物館で開催されます。 当日は、 加古川流域の古代文化フォーラム が行われ、当館石野博信館長が基調講演を行います。  フォーラム(参加無料)    開催日時 平成25年3月2日(土) 13:30~16:30    会   場 当館講堂 事前の申し込み期限は過ぎていますが、当日参加も可能となっています。 フォーラムの案内チラシ は ここ をクリックしてください。 館長講演のお題は、[~播磨国風土記について~」となっていますが、 内容はどのようなものになるのでしょうか。 事前の情報では「川の流れと播磨風土記」となったようです。 播磨国風土記の特徴の一つに、現存する五カ国の風土記の中で、朝鮮半島からやって来た渡来人に関わる記述が多いことが上げられます。 また、播磨以外の国や地域の名が多く登場しており、移住や交流の状況も推し量れます。 あくまで予想ですが、これらについての川の果たす役割のようなことを話されるのではないかと思います。 どうぞ、ご自身の目と耳でお確かめください。 東播磨流域文化協議会は、東播磨にある恵まれた水辺環境や歴史的資源、社会的資源を生かしながら住民や行政が一体となって地域づくりに取り組むため、住民、民間団体、行政等によって平成6年8月8日に設立された団体です。 東播磨流域文化協議会については、 ここ をクリックしてください。

室津四丁目遺跡 企画展 ひょうごの遺跡 Vol.5から

室津四丁目遺跡は、兵庫県南西部、たつの市御津町室津にあります。 室津は中国の月にちなんだ名前をもつ嫦娥山(じょうがさん 標高265m)の南麓にの瀬戸内海に面する港町です。 東側には嫦娥山から派生した城山(標高51m)があり、南にのびる尾根、更に北西に伸びる尾根が岬となり、湾をかたちづくっています。 この景観は『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』では、「此泊 防風如室」(この泊(とまり=港) 風を防ぐこと室(むろ=部屋、保存、育成室)のごとし)」と記され、室津の地名の由来となっています。 備前焼 甕 また、御津の地名は同じく『播磨国風土記」揖保郡条浦上里(たつの市揖保町南部、御津町西部)の記事において「息長帯日売命 宿御船之泊」(息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと) 御船(みふね)を宿(は)てたまいし泊(とまり)なり」と、記されています。 この地が古来より海上交通の要衝であったことを物語っています。 また、時代は下がりますが、『高倉院厳島御幸記』(1180年)でも、「山はまりて、その中に池などのように見ゆる。舟どもおおく着きたる。」と、港などの地形的な特徴を記しており、今も当時とほぼ同じ景観を見ることが出来ます。 奈良時代には高僧行基により、 摂津と播磨の両国のなかで海上交通の良港として東より、 河尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石) 、韓(的形)、室津の五泊( 港)を定めたと言われています。 いわゆる摂播五泊です。 中世においては戦いの場となり、関ヶ原合戦以後は池田輝政が姫路に入り播磨を支配し、その後御津町域を含む揖西郡は播磨藩領となるが、室津は明治に至るまで姫路藩の飛び地とされました。 最盛期を迎えた17世紀後半から18世紀初頭には家数558軒、人数3470人、船25艘を数え『室津千軒」と言われました。近年は近世の面影を残す町並みは観光資源となり、2006年水産庁が制定した「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」に選ばれています。 今回の調査はたつの警察署室津駐在所庁舎新築工事に伴う発掘調査であり、室津の集落内で行われた考古学的調査の最初の例となっています。 庁舎地全景  備前焼きの埋甕(うめがめ)、土坑墓(土の中に穴を掘っただけで死んだ人を葬った墓)、石を並べた石列などと共

伊勢貝遺跡 企画展 ひょうごの遺跡 Vol.5から

三田市は兵庫県の南東部にありますが、旧国名では摂津国の北西部に位置していることから北摂地域と呼ばれ、もとは有馬郡に属していました。 調査区全景(西から) 伊勢貝遺跡は、三田盆地の北部の武庫川の支流である青野川・黒川を利用して計画された多目的ダムである青野ダム建設に伴う調査により発見されました。 調査地区から北を望む 青野ダムの千丈寺湖から更に奥に入った、峡隘(きょうあい)な谷の中にある遺跡です。 縄紋調査区(北から) 縄紋時代の遺構は発見されませんでしたが、後期末の土器片や石鏃(せきぞく: 矢の先端に紐などで固定させて使う 石でつくった 鏃(やじり)。)、 石錐(せきすい:石でつくった先端をとがらせた錐(きり))などが出土し、近くに集落があったと思われます。 縄紋土器 石器の多くには奈良県の二上山(にじょうざん)産のサヌカイトが用いられ、小さいながらも精巧に作られています。 伊勢貝遺跡として、初めての広範囲に及ぶ発掘調査となりました。 三田市では珍しい縄紋時代の遺物がまとまって見つかり、オンドル状遺構も見つかりました、 調査地は山間部で、季節は冬。 時折雪が舞い、水が凍結する中、調査は進んでいきました。 航空写真撮影当日は雨が降り順延、次の撮影日の朝は、雪で真っ白になってしまっていました。 これでは、写真を撮れません。 時間を一時間遅らせてもらって、やっと雪が消えて、撮影することが出来ました。 調査員の車の寿命が来て壊れましたが、工期達成のため、だましだまし何とか使用していきました。 車の買い換えを決定づけた遺跡です。

貴志・下所遺跡 企画展 ひょうごの遺跡 Vol.5から

貴志(きし)・下所(しもんじょ)遺跡は、兵庫県三田市中心市街地の北西約2km、武庫川西岸の平地部にある集落遺跡です。 調査A地区 調査B地区 既に周辺は三田市教育委員会により、 9 次に渉る調査が行われてきました。   今回の発掘調査は、武庫川西岸を南北に結ぶ県道「黒石三田線」の右折レーンの設置、歩道の設置・拡幅などの交通安全施設等の整備に伴い、実施されました。 堀立柱建物から離れた谷部の上層部から石を敷き詰めた中世の溝跡が発見され、更に掘り進めていくと祭祀跡が見つかり、多数の土器と 1,890 点もの臼玉(うすだま: 古墳時代の祭祀 ( さいし ) 用の玉。厚さ 2 ~ 3 ミリ、径 5 ミリ前後。形が茶臼に似ていることから名付けられました。)が出土しました。 このような大量の臼玉は、古墳時代の豪族の館近辺の溝や落ち込みなどから出土することが多く、近くに大型建物をもつ住まいがあったのかもしれません。 中世溝跡 古墳時代土器   臼玉出土状況と位置図 古墳時代の土器と玉 以前の調査結果から、今回の調査地は村はずれにあたり、狭い場所であることから、調査員は簡単に終えることが出来ると聞いて、調査に出かけたようです。 しかし掘ってみると、上下二層構造となっており、上層部の中世の溝の大量の石を実測して図面に起こすのが大変であったところに出現した下層部の土器群、そして極めつけは、臼玉 1,890 点。 竹串を地面に差しながら、その場所を図面にプロットして調査を行い、記録していきました。 季節は夏の暑いときで、休憩できる日陰はテントのみ。 暑さの中で大量の遺物と格闘した、大変な記憶に残る遺跡だったようです。

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