スキップしてメイン コンテンツに移動

室津四丁目遺跡 企画展 ひょうごの遺跡 Vol.5から

室津四丁目遺跡は、兵庫県南西部、たつの市御津町室津にあります。
室津は中国の月にちなんだ名前をもつ嫦娥山(じょうがさん 標高265m)の南麓にの瀬戸内海に面する港町です。
東側には嫦娥山から派生した城山(標高51m)があり、南にのびる尾根、更に北西に伸びる尾根が岬となり、湾をかたちづくっています。
この景観は『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』では、「此泊 防風如室」(この泊(とまり=港) 風を防ぐこと室(むろ=部屋、保存、育成室)のごとし)」と記され、室津の地名の由来となっています。

備前焼 甕

また、御津の地名は同じく『播磨国風土記」揖保郡条浦上里(たつの市揖保町南部、御津町西部)の記事において「息長帯日売命 宿御船之泊」(息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと) 御船(みふね)を宿(は)てたまいし泊(とまり)なり」と、記されています。
この地が古来より海上交通の要衝であったことを物語っています。

また、時代は下がりますが、『高倉院厳島御幸記』(1180年)でも、「山はまりて、その中に池などのように見ゆる。舟どもおおく着きたる。」と、港などの地形的な特徴を記しており、今も当時とほぼ同じ景観を見ることが出来ます。

奈良時代には高僧行基により、摂津と播磨の両国のなかで海上交通の良港として東より、河尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石) 、韓(的形)、室津の五泊(港)を定めたと言われています。
いわゆる摂播五泊です。

中世においては戦いの場となり、関ヶ原合戦以後は池田輝政が姫路に入り播磨を支配し、その後御津町域を含む揖西郡は播磨藩領となるが、室津は明治に至るまで姫路藩の飛び地とされました。

最盛期を迎えた17世紀後半から18世紀初頭には家数558軒、人数3470人、船25艘を数え『室津千軒」と言われました。近年は近世の面影を残す町並みは観光資源となり、2006年水産庁が制定した「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」に選ばれています。

今回の調査はたつの警察署室津駐在所庁舎新築工事に伴う発掘調査であり、室津の集落内で行われた考古学的調査の最初の例となっています。


庁舎地全景

 備前焼きの埋甕(うめがめ)、土坑墓(土の中に穴を掘っただけで死んだ人を葬った墓)、石を並べた石列などと共に、備前焼きの甕・擂鉢(すりばち)・壷や中国製の白磁器・皿、青磁器・皿などが数多くみつかり中世の港町繁栄の様子が偲ばれます。
出土陶磁器(内面)


出土陶磁器(外面)

石列


室津の町は江戸時代以後のことはわかっていても、それ以前の状況はよくわかっていません。
調査地点は、室津の町の核心部であることから、調査員は様々な思いを抱いて発掘調査を行いました。
地元の皆さんににも助けられ、室津の存在の一端を示すことが出来ました。

このブログの人気の投稿

あなたは縄文人? 弥生人?

人の顔形はさまざま! 顔の輪郭、髪の毛、眉の形、目・まぶた・鼻・口の形は各人ちがいますが、 これらのパーツも縄文人に多い形、弥生人に多い形があります さて、あなたは 縄文人? 弥生人? まずは「自分の顔をつくってみよう」 縄文顔:四角い顔、太い眉、どんぐりまなこ、二重のまぶた、広がった鼻、分厚い唇、毛深い 弥生顔:面長顔、細い眉、切れ長の目、一重のまぶた、小さな鼻、薄い唇、ひげが薄い まず自分の顔をつくってみましょう これらのパーツをつかって・・・ 自分の顔をつくってみましょう そして、左のページを持ち上げ、右の顔に被せるように折りたたみます そして開いてみると 左に顔が移りましたが、 緑 と 橙色 のパーツに 緑は縄文人 橙は弥生人 各パーツが混じっています 現代人は 縄文人的な要素 と 弥生人的要素 が混じっているのです。 中国大陸や朝鮮半島などから各時代に渡来し、混血し、今の日本人になったと考えられます 「自分の顔をつくってみよう」 は 考古博テーマ展示室「人」のコーナーにあります 是非自分の顔をつくって、試してみてください!

明石駅・西明石駅のむかし

特別展「鉄道がきた!ー舟運・海運・馬車道・鉄道ー」 写真展 協力:西日本旅客鉄道株式会社神戸支社 明石駅・西明石駅のむかしの写真があります 明石駅・西明石駅のむかし 昭和9年の明石駅 昭和30年代前半の明石駅 昭和39年の明石駅 昭和47年の西明石駅(新幹線) 西明石駅の在来線と新幹線(昭和47年) 大阪ー神戸間開通140年記念写真展 是非ご覧ください 【お知らせ】 11月1日(土)10:00~16:00 兵庫県立考古博物館とその周辺を会場に 全国古代体験フェスティバル 2014を開催 雨天決行! ---------------------------------------------------------------------- 大阪ー神戸間開業140周年記念写真展 協力:西日本旅客鉄道株式会社神戸支社 11月30日(日)まで 1階エントランスホール ---------------------------------------------------------------------- 次回の特別展講演会 11月8日(土)13:30~15:00 「山陰山陽連絡鉄道敷設計画と播磨・境ルートの検証」 小西 伸彦 (吉備国際大学外国語学部准教授) ---------------------------------------------------------------------- 11月15・16日(土・日) 15日:12:00~15:30 16日:10:00~15:30    ミニSLやミニ特急列車に乗ろう!(ミニ鉄道走行会)    協力:OSライブスティームクラブ 兵庫県立考古博物館 体験広場にて    ※別途観覧券要・開始30分前から整理券配布・お一人様2回まで    ※小雨決行(天候により中止になる場合があります)。 駅そば・駅弁販売     ~駅弁の掛け紙は復刻デザイン!~    姫路名物駅そば、駅弁

#自宅でも考古博 23 「型式の移り変わり」

  当館では考古学の成果だけではなく、考古学での「考え方」についても、さりげなく展示しています。東エントランスを入ったところにある「ときのギャラリー」もそうですが、「発掘ひろば」にもそうした展示があります。  「発掘ひろば」の左奥、壁に丸い水筒のような須恵器が四つ並んでいます。これは古墳時代の「提瓶」(ていへい)と呼ばれる須恵器で、型式の移り変わりを実感していただくための展示です。  考古学では、型式の移り変わりを考える際にポイントとなる「ルジメント」という考え方があります。もともとは生物学の用語で、日本語では「痕跡器官」となります。例えば、人の尾てい骨のように、昔は機能していても、現在は退化して、痕跡のみとなっている器官の事です。  提瓶はこの「ルジメント」が判りやすいものですが、それにあたるのはどの部分でしょうか? 提瓶の型式変化    肩の部分に注目してください。右から丸い輪が両方についているもの、輪ではなく鉤状の突起が付いているもの、ボタン状になっているもの、何もついてないものと変化しているのが分かると思います。  これは提げるための紐を結ぶための部分が、その機能が失われることによって、時期が新しくなるにしたがって、退化していくことを示しています。つまり、展示でいうと右から左にかけて、型式が新しくなるということです。  でも、変化の方向としては「提げるという機能が追加されていくという変化(左から右)でもいいのでは?」というツッコミが入りそうです。実は高校の授業で提瓶を使って、ルジメントの説明をしたことがあるのですが、2回の授業とも生徒の圧倒的多数がそういう意見でした。  では、変化の方向を決めるのは何かを再度考えてみます。機能が追加されていく方向に変化するのであれば、紐がひっかけられないボタン状の段階は必要ありませんよね。したがって、型式が変化する方向は右から左ということになるのです。  ルジメントについて、何となくわかっていただけたでしょうか?実際の型式変化については、ルジメントだけではなく、層位学の考え方(古いものが新しいものより深い地層から出土する)なども加味しています。この考え方についても、「発掘ひろば」で紹介していますので、ご確認ください。  ところで、提瓶の変化はどうして起こるのでしょうか?

過去の記事一覧

もっと見る