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#自宅でも考古博37「古代播磨の心霊スポット」

  奈良時代はじめ頃の播磨地域について詳しく書かれている『播磨国風土記』には、今で言う「心霊スポット」についての記述があります。それらは「荒ぶる神伝承」「交通障害説話」などと呼ばれていて、特定の場所を行き交う人のち半分が死んでしまう、といった、今の心霊スポットよりもずっと被害に遭う確率が高く、恐ろしいものだったようです。   荒ぶる神の鎮祭伝承一覧(参考文献より)  そのうち、③と④は同じ「神尾山」に接する地域に残された伝承です。  いずれも地域住民にとっては迷惑な神ですが、「一定のリズムと具体的数値をともなう定型句が配置」されていて、それぞれの土地がなぜそういう地名になったのか(地名起源説話)について記されています。  こうした荒ぶる神伝承は、自然災害(洪水、濃霧、鉱毒など)によってもたらされた交通の障害に対する祭祀説話であるとされています。古代には荒々しい自然現象は荒ぶる神によるものと考えられていたのでしょう。そして、①⑤以外は、結局荒ぶる神が祭祀によって鎮められ、行き交う人々に平和と安全が保障されるようになる、という点で共通しています。  このような風土記に記された伝承はそれぞれの土地の人々によって語り継がれていました。そして上記の「荒ぶる神鎮祭伝承一覧」の例を見ると、神を祭り鎮めた者として具体的な氏族、個人名が記されている場合があるので、彼らは荒ぶる神を祭り鎮めたご先祖様であり、土地の人々にとってはその土地の開拓者といった性格を持っていたようです。だからこそ、こうした説話を語り継いできたのでしょう。  「荒ぶる神」の舞台となったのは人の往来の多い交通の要衝でもありました。時代が下って現在、大きな道は道路法の規定によって国や地方自治体などによって管理されています。現代における「荒ぶる神」はこうした組織によって鎮められている、といえるのかも知れません。 (館長補佐 中村 弘) <参考文献> 坂江 渉 2022 年 「 『 風土記 』 の 荒ぶる 神 鎮 祭 伝承と 倭王権 の 地域 編成 」 『 ひょうご 歴史 研究室 紀要 』 第 7 号

#自宅でも考古博 36「播磨国風土記と蛇行剣」

 1月26日(木)、奈良県奈良市の富雄丸山古墳(円墳で全国最大の直径109m)の造り出しに築かれた埋葬施設から、盾形の青銅鏡とともに、 237㎝にもなる全国最大で最古の蛇行剣(蛇のようにうねった刃をもつ剣)が出土したと発表されました。  蛇行剣とは、刃の部分が蛇のようにうねった剣のことで、古墳時代中期に盛行する特異な剣です。  全国では81点が確認されていて、そのうち兵庫県内では亀山古墳2点(加西市)、茶すり山古墳2点(朝来市)、火山13号墳1点(丹波市、当館所蔵)の合計5点が出土しています。素材の鉄を分析した例を見ると炭素含有量の少ない鋼を使用しているので、武器としての実用性はなく、儀礼に使用されたものであった可能性があります。  また、これまでの研究から、古い段階の蛇行剣は前方後円墳ではなく大型の円墳から出土することが多く、さらに同じ古墳でも中心となる埋葬施設からではなく、それ以外の埋葬施設から出土する例が多いことがわかっていて、古墳の主たる被葬者の副葬品ではない、とされていました。今回の発見でもサイズの差こそあれ円墳で造り出しの埋葬施設から出土しており、これまでの研究を裏付ける結果といえます。  この蛇行剣発見の報を聞いたとき、頭をよぎったのが『播磨国風土記』讃容(佐用)郡中川里の一文で、天智天皇の時代、河内国(大阪府)の人から30㎝ほどの剣を買い取ったところ、その一家が滅んでしまったという、恐ろしい呪いの剣のお話です。その後、剣は土の中から発見されたのですが、錆びもせずに鏡のように光り輝いていたといいます。発見した犬猪さんは剣を持ち帰り、鍛冶職人を呼んで刃を焼かせたところ、蛇のように「屈申」したそうです。  この「蛇のように」と表現しているのは蛇行剣をイメージしているためかもしれません。古墳時代中期に盛行した儀礼用の蛇行剣は、200年後にも霊力のある剣として恐れられたことを表しているのでしょうか。  奈良時代、この地域は鉄が産出されていたと『播磨国風土記』に記されているので、鍛冶職人も周りにはたくさんいたのでしょう。また、中川里には美作道の駅家「中川駅」が置かれていたようです。そして明日香村の大官大寺跡からは「讃用郡駅里鉄十連」と書かれた木簡が見つかっています。こうした鉄の産地、交通の要衝といった環境もこの説話が生み出された要員の一つだったのでしょう。  さ...

#自宅でも考古博 35「熊本城跡横穴墓と箕谷2号墳の紀年銘鉄刀 」

1月 27 日、熊本城跡にあった古墳時代の横穴墓から「甲子年五月中」の銘文のある鉄刀が見つかったと発表されました。当館にも「戊辰年五月□(中か?)」の銘文がある国重要文化財の鉄刀(兵庫県養父市箕谷(みいだに) 2 号墳出土)が保管されています(文化庁所有)。 鉄刀の制作年がそれぞれ西暦 604 年、 608 年と推定( 60 年ごとに同じ名前の年が巡ってくるために特定できない)されており、比較的制作年代が近い作品です。しかも、「五月」に制作されたという共通点がありますが、これは偶然なのでしょうか。 当館の分館である古代鏡展示館(兵庫県加西市)には、「五月五日造」の文字のある鏡があります。隋~唐の時代の八瑞獣紋鏡(八匹のおめでたい獣が表された鏡)で、上記の鉄刀とは年代も近いのですが、これだけ「五月」がそろうと、そこには単なる偶然ではなく、意味があるように思われます。 八瑞獣紋鏡(加西分館蔵) 古代の日本と中国では、五行説(五行思想)という考えが広まっていました。すべての物は火・水・木・金・土の五種類から成り立っていて、それらが互いに影響を与え合い、循環している、というものです。 この思想では、旧暦の五月とは夏至を含む夏であり、銘文にある「五月」は熱・火を使って鍛造や鋳造をするのに縁起がよい日付であったようです。 こうした五行説の考えや、多くの作品が「五月」制作と記されていることから、これらは実際に五月に制作されたというよりは、縁起がよい日を作品に記し、作品の品質、価値を保証することを目的に記されたのではないでしょうか。 (館長補佐 中村 弘)

#自宅でも考古博 34「弥生時代の鳥形木製品」

当館のテーマ展示室の環境コーナーに、米作りや銅鐸の祈りをする弥生時代の風景が展示されています。 その入口に、竿の先に取り付けられた鳥形の木製品がありますが、気付いていただいていますか? テーマ「環境」の入口両脇に立てられた 鳥形木製品(弥生時代)の再現 これは、神戸市西区の玉津田中遺跡から出土した弥生時代の鳥形木製品の使われている様子を復元したものです(感染症対策をした旧石器人が手前にいますが、、、)。 鳥形木製品とは、別々につくられた胴体と羽を組み合わせて鳥形にした木製品のことで、集落や田んぼ、井戸、お墓など、村の入口や異界との境界に立てられた祭祀具であると考えられています。 このような鳥形木製品は、大阪府和泉市の池上曽根遺跡や、愛知県名古屋市・清須市の朝日遺跡など、近畿、東海地方の弥生時代の遺跡から多く見つかっています。 弥生時代になって登場することから、稲作と共に朝鮮半島から伝えられた風習とも考えられますが、北部九州ではあまり見つかっていません。 吉野ヶ里遺跡で復元されている 鳥形木製品 朝鮮半島といえば、お隣の韓国でも同じような形態をした鳥形の木製品があり、「ソッテ」(솟대)とよばれています。近年まで風習が残っていて、多くの場合、村の平和、守護、豊作を祈願し、村人たちが共同で村の入口に立てていました。 日本において鳥の信仰は古く、『日本書紀』や『古事記』などに登場するほか、考古資料としては、鳥の絵画が弥生時代の土器や銅鐸、古墳時代の装飾古墳や埴輪に描かれています。また、古墳に立てられた鳥形埴輪や鳥形木製品の事例も報告されています。 神社の「鳥居」の起源とも噂される弥生時代の鳥形木製品ですが、鳥への信仰は多くの地域、長い時代にわたって認められることから、直接的な関連を証明するのはそう簡単なことではないようです。 しかし、時空を越えた鳥に対する思いは、過去から未来へと、羽が生えて飛んでいくようです。 学芸課 中村 弘

#自宅でも考古博 33「調査研究事業 古代官道」

 考古博物館が開館した平成19年から、現在も継続して行われている調査研究事業に、「兵庫県内における古代官道に関する調査研究」があります。  古代官道とは、飛鳥時代に整備され、奈良時代に改修された国の直轄事業の道、つまり「国道」のことです。主要なものとして、都と各地方を直接結ぶ七道(山陽道、山陰道、南海道、西海道、東海道、東山道、北陸道)があります。この時の名称は現在にも引き継がれて使用されています(山陽自動車道など)。  兵庫県ではこのうち山陽道、山陰道、南海道の3つの道が通過していました。  それぞれの道には、一定の距離(16㎞が基本)ごとに駅家(うまや)が設置され、馬の乗り換えや利用者の宿泊、饗宴などが行われました(今の高速道路のサービスエリア的な)。  この古代官道の考古学的研究は、兵庫県が全国でも最先端を進んでいる、と自信を持って言えるほどです。  その根拠は、全国で初めて駅家であると確認された遺跡「小犬丸遺跡(こいまるいせき)」【=布勢駅家(ふせのうまや)】(たつの市)があること、さらに、全国で唯一の国指定史跡となっている駅家【野磨駅家(やまのうまや)】(上郡町)があること、が挙げられます。  当館では、山陽道の駅家のうち、賀古駅家(かこのうまや/加古川市)(H20~21)、(仮称)邑美駅家(おうみのうまや/明石市)(H22~24)、邑智(大市)駅家(おおちのうまや/姫路市)(H25~28)、高田駅家(たかだのうまや)(R1~)の発掘調査を行い、位置を確定したり、出土品を収集したりするなど、多くの成果を上げています。  私も、第1期の調査である賀古駅家(古大内遺跡/ふろうちいせき)の調査を2年間、担当しました。その間、山陽道から駅家の東門への進入路の発見、唐居敷(からいじき)の発見など、多くの成果がありました。  今後の研究の進展にご期待ください! (学芸課 中村 弘)

#自宅でも考古博 32 「発掘こぼれ話6 兵庫県三ツ塚廃寺の発掘」

  1972(昭和47)年、大学院1回生になって、初めて調査員として参加したのが丹波市市島町の三ツ塚廃寺(遺跡)という白鳳時代(7世紀後葉)の寺跡だった。  春先に、西宮市にある甲陽中・高校の高井悌三郎先生が小林行雄先生を訪ねて来られていたのは知っていたが、そこで話が決まったのか、夏の発掘には三ツ塚に行くことになった。おまけと言っては何だが、その学年の後期の半年間、甲陽中学校で地理の非常勤講師をすることも決まった。   神戸新聞の壇上重光 さんと  調査団長は高井先生で、現場監督は京都大学考古学研究会の創設者の一人である橋本久さん(大阪経済法科大)。主力は神戸大学考古学研究会のメンバーだった。宿舎は遺跡近くにあった済納寺保育園の板敷きの大部屋。  調査員ということで、高井先生と橋本さんの指導を受けながら、かなり自由に掘らせてもらえ、たいへん勉強になった。しばらく辰馬考古資料館にいた大学の同級生の中田興吉さん(大阪学院大学)がいてくれたことも大きな助けになった。    男子は大部屋で雑魚寝だったので、夜は大騒ぎ。ビール大ビン1本がちょうど入る丼茶碗でがぶ飲みする猛者が何人もいた。飲んでいる最中に雨が降りだすと、そのまま全員現場に駆けつけシートを掛けてまわった。帰る前に毎日掛けておけば良かったのに。酔っぱらってトレンチに落ちたのもいた。  朝夕の食事はどこかの給食センターのものだったが、フライものが多く、1週間もすればイヤになった。ただ、カレーが出た時だけは大人気で競争になり、1杯目はかまずに流しこむものも現れた。   印象に残っているのは味噌汁。旨い不味いの問題ではなく、時々異物が入っていたのだ。最初は短い紐などだったが、針金になり、最後は金の差し歯になった。ああー。それが当たった学生は二度と味噌汁を飲まなくなった。と言うことは、他のものは飲みつづけていたということだ。    夏休みが終わり、学生が引きあげると、泊まるのは、ほとんど橋本・中田・和田の3人になった。午前2時、3時とトランプに興じ、それでも朝は7時起床。私は11月に結婚することが決まっていて京都にアパートを借りていたので、1週間で市島町の現場、京都のアパート、西宮の甲陽中学を三角まわりした。  アパートには妻になる予定の人がすでに入っていたが、初めて帰った時、2間し...

#自宅でも考古博 31 「発掘こぼれ話5・京都市中臣遺跡の発掘」

 1971 年。 5 回生の時、北山修さんが考古学研究室にやってきた。京都府立洛東高校の生徒だった岡本英和・洋兄弟が、京都市山科区の住宅地の一角で弥生土器を発見したが、ほっておくと遺跡が壊されてしまうので何とかしてくれという話だった。  そこで、急遽、大学院生の山本忠尚さん(天理大学)を中心に発掘をすることになった。調査主任は田辺昭三さん(京都市埋蔵文化財研究所)。北山さん、川西宏幸さん(筑波大学)、和田等が参加した。  三叉路の道に面した三角形状の狭い土地だったが、弥生時代中期前葉( 2 様式)の方形周溝墓と古墳時代末期の石槨化した小型の横穴式石室が発見された。  方形周溝内からは保存状態のいい土器がいくつか出土したが、いずれも近江系の土器で、この資料をもとに近江の第 2 様式土器を新古に区分できる可能性があるということだった。  その年の秋、今度はこの住宅地の下にある水田が広い範囲で区画整理されるというので、道路部分を発掘する話が持ちあがってきた。田辺さんが調査主任、京都大学大学院生の桃野真晃さんが現場監督。平安京調査会のメンバー(後、京都市埋蔵文化財研究所)、丹羽佑一(香川大学)、和田等が参加した。  弥生時代終末期~古墳時代前期と古墳時代後期後葉~飛鳥時代前葉の 2 時期の竪穴建物が多数検出された。前者は円形と方形の竪穴建物を中心とした拠点集落、後者は方形の竪穴建物を中心とする一般集落かと思われる。 この時、自分たちのチームで竪穴建物を 5 、 6 基掘りきったことが大変良い勉強になったし、自信にもなった。 この発掘で印象に残ったのは、一つは弥生終末~古墳初頭の土器で、この時、出土したもののほとんどが、「受口状口縁甕」を中心とする近江型の土器だったことである。畿内系の「くの字状口縁タタキ甕」は 2 片ほどしか出なかった。京都とは言っても、山科盆地は近江の勢力圏なんだと強く感じた(後の調査では後者が増えている)。      近江型(左)と畿内系(右)の土器  ( 京都市文化観光局・京都市埋蔵文化財研究所 1986 『中臣遺跡発掘調査概報』より転載)   もう一つは、弥生の竪穴建物の中央部はすぐには埋もれず、古墳時代の終わり頃になっても窪んでいて、須恵器が数多く捨て...

#自宅でも考古博 30「副葬品を入れるとしたら?」

 テーマ展示室の「交流」のコーナーに入ると、目の前に大きな石棺が現れます。  古代船(準構造船)とともに、圧倒的な存在感を発揮していますね。  この展示品も古墳時代と同じように、高砂市から加古川市にかけて産出する「竜山石(たつやまいし)」を使って復元しています。しかも、どうせなら竜山石製石棺のうちで最大、しかも現在は陵墓参考地として目にすることができない見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳ともいいます。奈良県橿原市)の家形石棺を原寸大で復元し、修羅という木ソリで運ばれていく様子を再現しています。 家形石棺 竜山石で復元(当館テーマ展示室)  さて、古墳時代の有力者が亡くなると、なきがらと一緒にお墓に入れられる貴重品がありますよね?  そう、副葬品です。  遺跡の発掘調査に憧れ、考古学を志す者が圧倒的に夢見るのが古墳の発掘。そして一体どんな副葬品が眠っているのか、想像するだけでワクワクしてきませんか。  私も中学時代に、藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の未盗掘の石棺が発掘されるという報道に接しました。ファイバースコープを入れて石棺内部の様子を探るというニュースを、テレビにかじりついて固唾を飲んで見守った思い出があります。 藤ノ木古墳の記者発表を行う 石野名誉館長 (当時奈良県立橿原考古学研究所副所長) 朝日新聞社『アサヒグラフ 藤ノ木古墳大特集』(1988)より  ところで、古墳にはどのような副葬品が、どのような場所に納められていたのでしょうか?  大きな古墳は過去に盗掘されていることが多く、なかなか埋葬当初の様子をうかがい知ることができる機会は多くありません。長年発掘調査に携わっている調査員でも、埋葬当初のままの石室を掘り進み、手つかずの棺の蓋をあける幸運な経験に恵まれるのはほんの一握りの人でしょう。  私もまだ蓋を開けたことはありません。  では、古墳の埋葬施設に副葬品の置かれた様子を見てみましょう。  イラストは古墳時代の前期(3世紀後半から4世紀頃)の埋葬施設を佐賀市金立銚子塚(きんりゅうちょうしづか)古墳の発掘調査成果をもとに描いた想像図です。 前期古墳の副葬状況想像図 (佐賀県立博物館『日本の古墳』1998より)  有力者のなきがらの右脇には、大刀が先を足元に向けて置かれ...

#自宅でも考古博 29「発掘こぼれ話その4-電話に出た古墳時代の「ひとみさん」-」

当館のテーマ展示「人」のコーナーには、ある一人の女性が開館当初からずっといらっしゃいます。 その方のお名前は「ひとみさん」。 本名はわかりませんが、私たちが勝手にそう呼んでいます。 ひとみさんは今から約1,700年前の古墳時代前期に、朝来市和田山町でご活躍されていました。もちろん今はお亡くなりになり、骨になってしまっています。 ひとみさんの展示 「ひとみさん」とお呼びするようになったきっかけは、今から約30年前、ひとみさんのお墓である向山2号墳(朝来市)を発掘していた時のことです。 兵庫県に就職が決まってまもない頃の私は、初々しく、はしゃぐように発掘をしていました。 調査が進むと、古墳は一辺10mほどの方形であることが明らかになり、その中央からは大きな墓穴がみつかりました。墓穴を掘り進むと丁寧に組んだ石の蓋が出てきました。 丁寧に組まれた蓋石 図と写真による記録をとり、慎重に蓋を外しながら中をのぞくと、、、、 中には人骨が残っていて、目と目が合い(目はないけどそんな気がした)、ドキッとしたことを今でも憶えています。 ひとみさんの埋葬の様子 ひとみさんのお墓はベンガラで真っ赤に塗られた竪穴式石室で、意図的に割られた中国製の内行花紋鏡が枕元に、2本のヤリガンナ(木を削るカンナの一種)が肩の辺りに置かれていました。 石室の外には2つの土器が供えられ、玉砂利が石室周辺と棺内に敷かれていました。 手厚く葬られていて、地域の人々から信任され、愛されていたことがわかります。 赤く塗られた石室と 供えられた土器 意図的に割られた 中国製の鏡 (小型の内行花紋鏡) 発掘調査で人骨が出土すると、形質人類学がご専門の大学教授に現場を見ていただき、年齢、性別、身長、その他の身体的特徴を教えていただいています。   ひとみさんの調査の時も先生に連絡をとり、現場まで見に来ていただきました。 すると、 「この方はきゃしゃで、美人さんですね。例えるなら、黒木瞳さんのような方です。」 とのお言葉。 この時から、私たちはこの方のことを「ひとみさん」と呼ぶようになりました。 先生のお話によると、ひとみさんは ①40~60歳の熟年女性 ②身長は約150センチ ③虫歯があり、生前に上の左右...

#自宅でも考古博 28 「発掘こぼれ話その3-長野県大室古墳群の発掘ー」

  1969 年の冬、長野市にある積石塚で有名な大室(おおむろ)古墳群(約 500 基)の発掘に行った。積石塚というのは墳丘を石を積んで造った古墳のことで、その頃、高句麗などに多いことや、香川県の古い古墳にあることなどが話題になっていた。大学院生だった中村徹也さん(山口県教育委員会、写真の後)がその研究をしていて、今度、大室で積石塚を発掘するというので誘ってくださったのだ。  学部生の川西宏幸さん(筑波大学、前列左側)と篠原徹さん(国立歴史民俗博物館、前列右側)と私の 3 人がついていった。東京からは駒沢大学の倉田芳郎先生や東京大学大学院生の飯島武次さん(駒沢大学)等が来ていた。 発掘調査の参加者たち   われわれには 425 号墳があてがわれた。 宿舎は松代の国民宿舎で温泉も湧いて言うことなし。しかし、長野の冬は寒かった。 拳大か、それよりやや大きめの川原石を積んだ墳丘の実測は、川西、和田で担当したが、手がかじかんで長くはもたない。 30 分ほど描いては 30 分ほど焚き火にあたって体を温めた。 425号墳の測量図 ( 神村 透編 1970 『大室古墳群北谷支群緊急発掘調査報告書』長野県、大室古墳群調査会より転載)  ただ、休憩時間にはとびっきりのおやつが出た。長野名物のリンゴ。市場に出せないものらしいが、新鮮で甘くてみずみずしい国光だった。もう一つはこれも長野名物の野沢菜。お茶受けに大皿に山盛り。以後、その時の味を求めてリンゴや野沢菜を買うが、いつもがっかり。思い出の味に優るものはない。  この時初めて長野県考古学学会会長の藤森栄一さんや桐原健さん、神村透さんを見た。 (館長 和田晴吾)

#自宅でも考古博 27 「古代のインデックス」

 考古学では、出土遺物のうち、木に文字を書いたものを木簡と呼んでいます。紙やデジタルデータに囲まれている私たちにはピンとこないところがあるのですが、古代の人たちにとって、木簡は、材料が入手しやすい、表面を削ることで再利用ができるという利点があり、行政文書・荷札等、様々な用途に使われていました。また、文書用の木簡が不要になると、加工して別の用途に再利用することもありました。  用途・形態とも多岐にわたる木簡ですが、この焼き鳥の串みたいなものは何だと思いますか?古代但馬国気多郡に位置する深田遺跡(豊岡市)から出土したもので、平たい頭部に細長い軸が付いており、頭部の両面には文字が記されています。 深田遺跡の題籖軸  これは題籖軸(だいせんじく)という木簡。使い方は、軸の部分に紙の文書を巻き付けて保管するためのものです。紙の文書は書かれた面を内側にして巻き付けられますから、そのままでは中身が判りません。文書を開かなくてもすむように、頭部に文書の内容をメモするのです。今の付箋やインデックスと同じで、書類整理の基本は千数百年前からあまり変わっていないようです。  では、これらの軸に巻いてあったものはどのような文書だったのでしょう。もう一度、頭部をよく見てみましょう。若干の違いがあるのですが、表に文書の内容、裏面に年号を書いています。  一番右側のものを例にとると、「造寺米残」、「弘仁三年」(812年)とあります。造寺米とは寺の造営に支出したコメの事で、弘仁三年の残量を記した文書ということになります。寺の名前は書いてありませんが、おそらく但馬国分寺か国分尼寺の造営に使われたものでしょう。  他の題籖軸にも「官稲」・「田租」・「租未進」、「大同五年」(810年)・「弘仁四年」(813年)と見え、どうも9世紀初め(平安時代)の税金に関わる文書類を整理したもののようです。  深田遺跡からはこれ以外にも土地や稲に関わる木簡類や墨書土器が出土し、その中には他郡の名称を記すものがあることから、但馬国全体の文書行政をつかさどる役所-但馬国府-の有力な比定地となっています。   ※なお、今回紹介した題籖軸は常設展では展示しておりません。 (埋蔵文化財課  鐵  英 記)

#自宅でも考古博 26 「発掘こぼれ話その2ー京都府元稲荷古墳の発掘ー」

 1969年、大学3回生の夏、助手になった都出比呂志さんの指導する向日市元稲荷(もといなり)古墳の発掘に参加した。全長90m余りの前方後方墳である。  この古墳の後方部には大きな貯水タンクがあり、タンクを造る前の調査では古手の竪穴式石槨が見つかっており、報告書も出ていた。  そのためもあって、発掘は前方部に限られた。前方部からみて左側(西側)のくびれ部を丹羽佑一さん(香川大学)等、右側(東側)のくびれ部を川西宏幸さん(筑波大学)等が担当し、前方部平坦面を吉田恵二さん(國學院大學)、和田等が担当した。小林謙一さん(奈良文化財研究所)もいた。都出さんは作業員の人たちと前方部の中軸線に沿って深いトレンチを入れ、埋葬施設の有無や土層を調べていた。  葺石の検出がおもな目的の両くびれ部班は、元のままの葺石と崩れた葺石の判別に苦労していた。特に左側は真夏の西日が厳しく照りつけ、「夕日のゲットー」などと呼んで若干やけ気味になっていたが、最終的にはここから見事な葺石が発見された。  前方部平坦面では後方部よりの非常に浅いところから、この古墳を一躍有名にした特殊器台形埴輪と二重口縁壺形埴輪の一群が検出された。ここは木陰もあって、手スコ(移植ゴテ)、竹ベラ、根切りハサミ、ホウキの優雅な作業だった。木に掛かったラジオからはその頃流行のビートルズの歌が流れていた。 出土した埴輪 (梅本康広編2015『元稲荷古墳の研究』(『向日丘陵古墳群調査研究報告』第2冊)向日市埋蔵文化財センターより転載)  私には、この発掘では、特殊器台形埴輪もさることながら、葺石の根石(基底石)が縦長に用いられていたのが印象に残った。後に、宮内庁が発掘した奈良県天理市渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳で、後円部真後ろから上下2列の縦長の根石が出たのを見学し、元稲荷古墳に隣接する五塚原古墳で同様な根石をふたたび検出するに及んで、その系譜的つながりを強く感じた。これにつては立命館大学の院生だった廣瀬覚さん(奈良文化財研究所)が論文をものにした。 (館長 和田晴吾)

#自宅でも考古博 25「昔の人の再利用」

 「stay home」中はどのようにお過ごしでしたか?  外食もできなくなり、take outの食事を利用するようになると、気がつけばゴミの山が、、、  この機会に家の片付けをされたからでしょうか、あるいは take outのためでしょうか、自宅前のゴミ収集場所には、いつもの倍近くの量が置かれていました。  さて、時代はさかのぼること約5,000年前。当時の日本は狩猟や採集を生活の基礎としていた縄文時代でした。ナチュラリストである彼らは、縄文土器を再利用して使っていたようです。  テーマ展示室「環境」の縄文のコーナーを見てみましょう。 補修孔のある縄文土器(佃遺跡/淡路市)  この縄文土器には、「補修孔(ほしゅうこう)」と呼ばれる孔が開けられています。 土器の割れ目やひび割れの両側に一対となる孔をあけ、紐を通して綴じ合わせて使っていた痕跡です。 補修孔の拡大 割れを挟んで一対の孔を開けている  時代は下って室町時代。  守護大名の山名氏の館近くにある豊岡市入佐川(いるさがわ)遺跡から天目茶碗が見つかりました。室町時代の茶席で使われる貴重品で、漆を接着剤にして修理された跡があります。(これは展示されていません。) 漆で接合された天目茶碗 (入佐川遺跡/豊岡市)  このように、出土品から昔の人たちはものを大切にしていたことがわかります。  そういえば私たちが子供の頃、買い物に行くと、お野菜は新聞紙にくるまれ、お豆腐は、持って行った容器に入れてもらいました。「ものがなかったから」と言えるのかもしれませんが、それなりに工夫して対応してきました。 「もったいない」の心もあったように思います。  ものを使い捨てにする文化が本当に心の豊かな文化といえるのか、縄文人からの問いかけに、今の私たちはどんな言い訳をするのでしょう? (学芸課 中村 弘)

#自宅でも考古博 24「ひとがた流しーひょうご考古楽倶楽部の活動-」

直前までの雨にたたられる事なく無事“ひとがた流し” (ひょうご考古楽倶楽部 会報 2019年7月号から)  毎年の梅雨時、天候が心配されながら行事が始まると不思議と晴れて、雨にたたられることがなく執り行われるのは、何か不思議な力が働いているのではとの思いがする「ひとがた流し」。 令和元( 2019 )年6月 30 日午後1時 30 分から 60 人の参加を得て、順調に行われました。「解説劇」を観た後、実際に “ 木のひとがた”に顔を書いて流しました。 解説劇の様子 解説劇のはじめに「みなさん、ひとがた流しって何だか知っていますか?」と司会者の問いかけに、一番前に座っていた男の子が「おはらいする行事や!」とすかさず大きな声で答えて、会場は一挙に和やかな雰囲気に包まれました。平安時代の文献「延喜式」に基づいた解説劇の天皇役とひめみこ役には、明石から家族と一緒に来たという小学生の兄妹に引き受けていただきました。 祝詞を読み上げ、観客もこの劇に参加し、「オウ!」と呼応する場面では、子ども達の大きな声で場が盛り上がりました。 お祓いの様子 劇の後、参加者全員に配られた“木のひとがた”にそれぞれ顔や願いを書いて、屋外の祓いどころでお祓いを受けて、館敷地内の弥生時代の遺構の溝を川に見立てて流しました。 流れるひとがた 解説劇の配役は倶楽部入会2年目の部員が中心となって担当しました。また舞台装置、背景、照明、効果音、受付、衣装準備などの総勢 24 人の倶楽部員が頑張りました。 (ひょうご考古楽倶楽部) 参加したひょうご考古楽倶楽部のメンバー(2019年度) ひょうご考古楽倶楽部は、播磨大中古代村 の敷地内にある兵庫県立考古博物館で、ボランティア養成講座を修了した考古楽者から組織されております。考古博物館を支援し、協働して博物館運営の一翼を担う活動を行い、地域における考古学学習や歴史文化遺産の保護・活用などの活動を行うため、そして会員相互の親睦を図ることを目的として、同好会を設け、古代体験プログラムの開発及び自己研鑽を行っています。(『ひょうご考古楽倶楽部ホームページ』より抜粋)

#自宅でも考古博 23 「型式の移り変わり」

  当館では考古学の成果だけではなく、考古学での「考え方」についても、さりげなく展示しています。東エントランスを入ったところにある「ときのギャラリー」もそうですが、「発掘ひろば」にもそうした展示があります。  「発掘ひろば」の左奥、壁に丸い水筒のような須恵器が四つ並んでいます。これは古墳時代の「提瓶」(ていへい)と呼ばれる須恵器で、型式の移り変わりを実感していただくための展示です。  考古学では、型式の移り変わりを考える際にポイントとなる「ルジメント」という考え方があります。もともとは生物学の用語で、日本語では「痕跡器官」となります。例えば、人の尾てい骨のように、昔は機能していても、現在は退化して、痕跡のみとなっている器官の事です。  提瓶はこの「ルジメント」が判りやすいものですが、それにあたるのはどの部分でしょうか? 提瓶の型式変化    肩の部分に注目してください。右から丸い輪が両方についているもの、輪ではなく鉤状の突起が付いているもの、ボタン状になっているもの、何もついてないものと変化しているのが分かると思います。  これは提げるための紐を結ぶための部分が、その機能が失われることによって、時期が新しくなるにしたがって、退化していくことを示しています。つまり、展示でいうと右から左にかけて、型式が新しくなるということです。  でも、変化の方向としては「提げるという機能が追加されていくという変化(左から右)でもいいのでは?」というツッコミが入りそうです。実は高校の授業で提瓶を使って、ルジメントの説明をしたことがあるのですが、2回の授業とも生徒の圧倒的多数がそういう意見でした。  では、変化の方向を決めるのは何かを再度考えてみます。機能が追加されていく方向に変化するのであれば、紐がひっかけられないボタン状の段階は必要ありませんよね。したがって、型式が変化する方向は右から左ということになるのです。  ルジメントについて、何となくわかっていただけたでしょうか?実際の型式変化については、ルジメントだけではなく、層位学の考え方(古いものが新しいものより深い地層から出土する)なども加味しています。この考え方についても、「発掘ひろば」で紹介していますので、ご確認ください。  ところで、提瓶の変化はどうして起こる...

#自宅でも考古博 22「「キズモノ」の考古学」

 「キズモノの資料」と聞くと、よくないことのように思われるかもしれませんが、一部の考古学者は「キズモノ」を見つけては喜んでいます。  当館では、そんなことを取り上げた展示があります。兵庫県で作られた瓦が京都にたくさん運ばれたことを伝えているコーナーです。 「瓦を運べ!すごろく」  手前のテーブルは双六(すごろく)になっていて子供たちが楽しく遊んで学ぶようになっています。壁に展示してある実物の瓦にはなかなか目を留めてもらえないのですが、細かな資料の「キズ」の観察から歴史の一面が明らかになることを示しています。 左:林崎三本松瓦窯(明石市) 右:鳥羽離宮(京都市)  右端のケースには、京都市南郊に位置する鳥羽離宮内の金剛心院跡から出土した瓦が展示されています(上の写真)。 金剛心院とは、鳥羽上皇により久寿元年(1154)に建てられた別荘内のお堂です。壁に描かれたお堂の絵や屋根瓦を葺いているジオラマはこの遺跡をモデルにしています。  この金剛心院跡から出土した瓦(右側)と同じ文様の瓦(左側)が、明石市にある窯跡(林崎三本松瓦窯跡)から出土しています。  キズモノの瓦 上:林崎三本松瓦窯(明石市) 右:鳥羽離宮金剛心院跡(京都市)  写真の平たい瓦(軒平瓦)をよく見てみましょう。きれいな唐草の文様が型押しされてつくられているのですが、よく見ると、どちらの瓦にも文様と関係がない部分に大きなキズが入っています。木製の型が傷んで木目に沿ってキズができ、それが押しつけられて瓦に写されたものです。  全く同じキズの痕跡により、両遺跡の瓦は同じ型を使って作られたことがわかり、明石でつくられた瓦が京都へ運ばれたことがわかるのです。  同じ文様の瓦でも、キズの形状が異なるものがあります。それらを金剛心院跡出土の瓦で調べてみると、金剛心院では少なくとも10個の型の存在が確認でき、明石市の林崎三本松瓦窯跡ではそのうち6個の型を使って瓦を作ってたことがわかりました。  このように「キズモノ」を探ることによって瓦の生産と消費の実態を細かく知ることができるのです。 (学芸課 池田征弘)

#自宅でも考古博 21「バックヤードへようこそ!」

 当館内の図書室「考古学情報プラザ」の前にあるらせん階段を下り、地下1階に行くと、「バックヤード見学デッキ」や、「収蔵展示」の戸棚の奥にある窓から、地下2階にある博物館のバックヤードをのぞき見ることができます。 「考古学情報プラザ」前の地下へ降りるところ 「バックヤード見学デッキ」 収蔵展示とその左奥の収蔵庫  さて、「バックヤード」って何でしょう?  英語の辞書(デジタル大辞泉)をひいてみると 1 裏庭 2 背景、バックグラウンド 3 店舗内で、売り場ではない場所。倉庫や作業場、調理場など。 とありますが、ここでは、3の意味です(店舗ではないですが)。  当館のバックヤードには、たくさんの出土品が詰まった収蔵庫や、出土品の復元・実測といった整理作業をするスペースが広がっているのです。 収蔵庫 出土品の作業がのぞけるデッキ  当館の地下2階では、 ①出土品の土の洗い流し(洗浄) ②破片を並べて組み合わせ(接合) ③もとの形にもどす(復元) ③細かく観察して図面を書く(実測) ④写真の撮影(写真撮影) ⑤そのままでは形を保てない金属器や木製品の保存処理 といった、地道な作業を積み重ね、 ⑥原稿執筆、編集作業 を経て、遺跡ごとに「報告書」という形で発掘調査の成果を公開します。 そして、 ⑦きちんとした台帳づくり ⑧収蔵庫に収納 までの作業を行っています。  発掘では莫大な量の土器や石器、金属器、木製品が出土しますが、常設展示や収蔵展示に並んでいるのはほんの一部。それ以外は、氷山の海に沈んでいる部分のように大量の資料がバックヤードに控えていて、特別展や企画展で皆さんに見てもらえる機会を待っています。  また、発掘当初は何だかよくわからなかった小さな破片が、その後の研究の進展によって、貴重な資料の一部であることがわかったり、たくさんの資料と比較検討することによって、地域の歴史や人々の暮らしの一面を明らかにする手がかりとなったりもします。 「Staff Only」の向こう側・・・  こうした博物館の裏側は、収蔵展示の奥の扉に書かれているようにいつもは「Staff Only」(関係者以外入れません)ですが、この扉を開けて特別に見学できる機会...

#自宅でも考古博 20「利き手と、絵の向き」

 以前、「自宅でも考古博11」で、土器や石庖丁から弥生人の右利き、左利きについて考えました。今回は絵について考えます。  考古学者の故・佐原真さんは、右利きの人が絵を描くと、動物や船などの絵は左側を向いたり、左側に進む絵になる、といいました。 サケ、シカ、シュモクザメの描かれた板、弥生時代 (豊岡市袴狭(はかざ)遺跡) テーマ展示室の「交流」の部屋では、船が描かれた古墳時代の板が展示されています。舳先(へさき:船の前方)が二股になる準構造船が描かれており、やや斜め前から見ると後ろの二股が見えなくなることから、左側が舳先であると推測されます。 船団の描かれた板、古墳時代 (豊岡市袴狭遺跡) 復原された準構造船を斜め前から見た様子  ところが、昨秋の特別展「埴輪の世界」で紹介した東殿塚古墳(奈良県天理市)の円筒埴輪に描かれた船は、鳥の向きや旗のたなびく方向から舳先は右側であると考えられます。 埴輪に描かれた船(東殿塚古墳/奈良県天理市) 九州の装飾古墳にも、舳先に止まった鳥が右側を向いているものがよく見られます。  日常を表現した絵は左側を向くことが多いのですが、古墳に関係するものに描かれた絵は、通常とはあえて反対側に向けて描かれていて、 「えっ?そっちの方向??」 と、違和感を感じさせるような意図が読み取れます。  あえて右向きに進むように描かれた船は、死者の魂を乗せてあの世に向かっているのかもしれませんね。 (学芸課 上田健太郎)

#自宅でも考古博 19「展示が変わる時」

(改修前巫女写真+現在の巫女写真) この2枚の写真を比べてみてください。テーマ展示室2の同じフィギュア(巫女)を写したものですが、どこが違うかわかりますか? 左は銅鐸を持っていますが、右では何も持っていませんね。左は巫女が銅鐸をまさに埋納しようとしている姿を表現し、左は銅鐸が巫女の手から離れて、打ち鳴らされる状態になった姿を現しています。今日はどうしてこうなったかについて、お話したいと思います。 当館で採用しているフィギュアなどを用いた展示は、来館者にイメージを伝えやすい反面、一度作ってしまうとなかなか変更が難しいところがあります。 しかし、考古学の世界では、新たな資料の発見により、これまでの解釈が大きく変わってしまい、展示についても再検討する必要が生じるケースがあります。 巫女のフィギュアから銅鐸が消えたのは、まさにそのケースで、平成27年に南あわじ市で発見された松帆銅鐸が深く関連しています。 松帆銅鐸は舌と呼ばれる金属棒が銅鐸内部に入った状態で埋められており、舌上部の穴及び銅鐸の鈕(釣り手)の部分に植物繊維やその痕跡が残存していました。また、銅鐸内面と舌の双方に衝撃によると考えられる凹みも見つかりました。 つまり、銅鐸は吊り下げられた舌が銅鐸内面にぶつかることで、音を出していることが明らかになったのです。これまでも銅鐸は鳴らすものと想定されていましたが、金属舌を伴う例は数少なく、紐状の繊維が見つかったのも初めての事でした。 この成果をもとに、当館では銅鐸の埋納状況を表す展示から、銅鐸の使用状況に重点を置いた展示、つまり紐で固定された銅鐸を打ち鳴らすことのできる展示に変更したのです。 (銅鐸の音:動画 約15秒) 実際に鳴らしていただくと分かりますが、銅鐸の音は「妙なる調べ」とはいうより「騒音」ではなかったかと思われますが、弥生時代の人々にとってはその音の大きさこそが必要とされていたのかもしれません。 (埋蔵文化財課 鐵 英記)

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