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5月 24, 2020の投稿を表示しています

#自宅でも考古博 24「ひとがた流しーひょうご考古楽倶楽部の活動-」

直前までの雨にたたられる事なく無事“ひとがた流し” (ひょうご考古楽倶楽部 会報 2019年7月号から)  毎年の梅雨時、天候が心配されながら行事が始まると不思議と晴れて、雨にたたられることがなく執り行われるのは、何か不思議な力が働いているのではとの思いがする「ひとがた流し」。 令和元( 2019 )年6月 30 日午後1時 30 分から 60 人の参加を得て、順調に行われました。「解説劇」を観た後、実際に “ 木のひとがた”に顔を書いて流しました。 解説劇の様子 解説劇のはじめに「みなさん、ひとがた流しって何だか知っていますか?」と司会者の問いかけに、一番前に座っていた男の子が「おはらいする行事や!」とすかさず大きな声で答えて、会場は一挙に和やかな雰囲気に包まれました。平安時代の文献「延喜式」に基づいた解説劇の天皇役とひめみこ役には、明石から家族と一緒に来たという小学生の兄妹に引き受けていただきました。 祝詞を読み上げ、観客もこの劇に参加し、「オウ!」と呼応する場面では、子ども達の大きな声で場が盛り上がりました。 お祓いの様子 劇の後、参加者全員に配られた“木のひとがた”にそれぞれ顔や願いを書いて、屋外の祓いどころでお祓いを受けて、館敷地内の弥生時代の遺構の溝を川に見立てて流しました。 流れるひとがた 解説劇の配役は倶楽部入会2年目の部員が中心となって担当しました。また舞台装置、背景、照明、効果音、受付、衣装準備などの総勢 24 人の倶楽部員が頑張りました。 (ひょうご考古楽倶楽部) 参加したひょうご考古楽倶楽部のメンバー(2019年度) ひょうご考古楽倶楽部は、播磨大中古代村 の敷地内にある兵庫県立考古博物館で、ボランティア養成講座を修了した考古楽者から組織されております。考古博物館を支援し、協働して博物館運営の一翼を担う活動を行い、地域における考古学学習や歴史文化遺産の保護・活用などの活動を行うため、そして会員相互の親睦を図ることを目的として、同好会を設け、古代体験プログラムの開発及び自己研鑽を行っています。(『ひょうご考古楽倶楽部ホームページ』より抜粋)

#自宅でも考古博 23 「型式の移り変わり」

  当館では考古学の成果だけではなく、考古学での「考え方」についても、さりげなく展示しています。東エントランスを入ったところにある「ときのギャラリー」もそうですが、「発掘ひろば」にもそうした展示があります。  「発掘ひろば」の左奥、壁に丸い水筒のような須恵器が四つ並んでいます。これは古墳時代の「提瓶」(ていへい)と呼ばれる須恵器で、型式の移り変わりを実感していただくための展示です。  考古学では、型式の移り変わりを考える際にポイントとなる「ルジメント」という考え方があります。もともとは生物学の用語で、日本語では「痕跡器官」となります。例えば、人の尾てい骨のように、昔は機能していても、現在は退化して、痕跡のみとなっている器官の事です。  提瓶はこの「ルジメント」が判りやすいものですが、それにあたるのはどの部分でしょうか? 提瓶の型式変化    肩の部分に注目してください。右から丸い輪が両方についているもの、輪ではなく鉤状の突起が付いているもの、ボタン状になっているもの、何もついてないものと変化しているのが分かると思います。  これは提げるための紐を結ぶための部分が、その機能が失われることによって、時期が新しくなるにしたがって、退化していくことを示しています。つまり、展示でいうと右から左にかけて、型式が新しくなるということです。  でも、変化の方向としては「提げるという機能が追加されていくという変化(左から右)でもいいのでは?」というツッコミが入りそうです。実は高校の授業で提瓶を使って、ルジメントの説明をしたことがあるのですが、2回の授業とも生徒の圧倒的多数がそういう意見でした。  では、変化の方向を決めるのは何かを再度考えてみます。機能が追加されていく方向に変化するのであれば、紐がひっかけられないボタン状の段階は必要ありませんよね。したがって、型式が変化する方向は右から左ということになるのです。  ルジメントについて、何となくわかっていただけたでしょうか?実際の型式変化については、ルジメントだけではなく、層位学の考え方(古いものが新しいものより深い地層から出土する)なども加味しています。この考え方についても、「発掘ひろば」で紹介していますので、ご確認ください。  ところで、提瓶の変化はどうして起こるのでしょうか?

#自宅でも考古博 22「「キズモノ」の考古学」

 「キズモノの資料」と聞くと、よくないことのように思われるかもしれませんが、一部の考古学者は「キズモノ」を見つけては喜んでいます。  当館では、そんなことを取り上げた展示があります。兵庫県で作られた瓦が京都にたくさん運ばれたことを伝えているコーナーです。 「瓦を運べ!すごろく」  手前のテーブルは双六(すごろく)になっていて子供たちが楽しく遊んで学ぶようになっています。壁に展示してある実物の瓦にはなかなか目を留めてもらえないのですが、細かな資料の「キズ」の観察から歴史の一面が明らかになることを示しています。 左:林崎三本松瓦窯(明石市) 右:鳥羽離宮(京都市)  右端のケースには、京都市南郊に位置する鳥羽離宮内の金剛心院跡から出土した瓦が展示されています(上の写真)。 金剛心院とは、鳥羽上皇により久寿元年(1154)に建てられた別荘内のお堂です。壁に描かれたお堂の絵や屋根瓦を葺いているジオラマはこの遺跡をモデルにしています。  この金剛心院跡から出土した瓦(右側)と同じ文様の瓦(左側)が、明石市にある窯跡(林崎三本松瓦窯跡)から出土しています。  キズモノの瓦 上:林崎三本松瓦窯(明石市) 右:鳥羽離宮金剛心院跡(京都市)  写真の平たい瓦(軒平瓦)をよく見てみましょう。きれいな唐草の文様が型押しされてつくられているのですが、よく見ると、どちらの瓦にも文様と関係がない部分に大きなキズが入っています。木製の型が傷んで木目に沿ってキズができ、それが押しつけられて瓦に写されたものです。  全く同じキズの痕跡により、両遺跡の瓦は同じ型を使って作られたことがわかり、明石でつくられた瓦が京都へ運ばれたことがわかるのです。  同じ文様の瓦でも、キズの形状が異なるものがあります。それらを金剛心院跡出土の瓦で調べてみると、金剛心院では少なくとも10個の型の存在が確認でき、明石市の林崎三本松瓦窯跡ではそのうち6個の型を使って瓦を作ってたことがわかりました。  このように「キズモノ」を探ることによって瓦の生産と消費の実態を細かく知ることができるのです。 (学芸課 池田征弘)

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