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5月 3, 2020の投稿を表示しています

#自宅でも考古博 14 「馬のいる駅」

  現代にはおもしろい駅がたくさんあります。犬駅長のいる駅、猫駅長のいる駅、中には伊勢エビ駅長のいる駅もあるようです。実は古代(飛鳥時代〜平安時代)の日本には、400カ所以上の駅に馬がいました。昔の駅は、電車を乗り継ぐ場所ではなく、馬を乗り継ぐ場所だったのです。  古代には「駅制」という交通制度があり、全国に東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の「 七道 (しちどう)」が造られ、駅路として高速道路のような役割を果たしていました。 古代の駅路(博物館のパネル)   兵庫県には山陽道(播磨)、山陰道(丹波・但馬)、南海道(淡路)の3つの駅路が走っていました。 駅路は直線的に造られており、原則30里(約16 km )ごとに 駅家(うまや) が設置されました。古代山陽道の各駅には、馬が約20頭いたことがわかっています。都や諸国から、鈴を鳴らした使者が早馬でやってきて駅で馬を乗り換え、目的地に向かって進んで行きました。  山陽道の駅家は、使者の食事・宿泊や宴会、外国からの客人をもてなすための施設としても利用されました。8世紀には、国の威信を示すため、瓦葺の屋根、白い壁と赤い柱を持つ立派な建物が建設されました。 なお、古代の駅にも駅長がいましたが、残念ながら全員人間だったようです。  兵庫県では、これまでに古代山陽道沿いの5カ所の駅家が発掘調査されていましたが、今年に入って上郡町で6カ所目の「 高田駅家(たかだのうまや) 」( 辻ヶ内 遺跡)が発掘されました。 調査の結果、駅家を取り囲む塀や、播磨国の駅家に特徴的な瓦が発見されました。 上郡町辻ケ内遺跡の発掘・瓦がたくさん出土している    当館 のテーマ展示室では、たつの市の 布勢駅家(ふせのうまや) から出土した瓦や木簡、土器を展示しています。土器には「驛(駅)」と書かれています。 「驛」墨書土器   上郡町の野磨駅家(やまのうまや) は清少納言『枕草子』や『今昔物語集』にも登場します。 野磨駅家(落地遺跡)の解説   博物館が再開したら、古代の駅 から発見された展示物をぜひ見に来てください。 古代の駅の展示コーナー (学習支援課 新田宏子)

#自宅でも考古博 13「お宅拝見-大中遺跡復元住居ー」

新型コロナウイルス感染予防のため、「家にいよう」が合い言葉になっております。大中遺跡公園内には、弥生時代の住居が復元されています。現在は「3密」を避けるために中に入ることができませんが、今回は皆さんの代わりに中の様子をご紹介しましょう。 大中遺跡の発掘調査では、地面を掘りくぼめた跡や柱の跡、焼け焦げた柱の痕跡が 80 棟以上確認できました。昭和 49 年「播磨大中古代の村」として整備する際に、日本の古い建築や古い時代の鏡に描かれた絵、民族例などを参考に竪穴住居 2 棟の復元が行われました。 現在は、弥生時代の大中の村の様子を再現するため7棟の住居を復元していますが、これらは最初に復元した住居をモデルにしています。 公園西側の入り口から見た風景 今回ご紹介するのは、西側入り口の一番手前の住居です。令和 2 年 1 月に屋根の修理が終わったばかりの住居で、外観はカヤがきれいな状態です。 修理前と少しだけ変わったのは、屋根の端の部分にあった千木と呼ばれる角状の飾りがなくなった点です。雨で傷みやすいので今回は再現しませんでした。 修理後の復元住居の外観 それでは、中に入ってみましょう。 階段があるのと、中が暗いので注意して下さい。 目が慣れてくると、中の様子がわかってきます。 復元住居の入口 柱が4本建っており、その上に梁(はり)と桁(けた)が載っています。 梁と桁には垂木(たるき)が斜めにかかっており、屋根を支える構造です。 垂木には小舞(こまい)と呼ばれる細い木が横方向に結びつけられています。 この小舞に屋根であるカヤが結びつけられています。 真ん中にくぼんだところがありますが、そこで火を焚いていました。 家の真ん中より外側の床が、 1 段高くなっているのも特徴の一つです。 皆さんの家族が弥生時代の人になったとしたら、どんな生活をしていたのでしょうか。どんな風に料理を作り、どんな風にご飯を食べて、どんな風に寝ていたのでしょう。また、家族はどんな会話をしていたのか想像してみて下さい。 復元住居の内部 修理が終わった復元住居については、燻蒸(くんじょう)作業を月 2 回行っています。 燻蒸中の復元住居 この作業は、復元住居内で松葉を燃やして煙を

#自宅でも考古博 12 「かぶとのペーパークラフトをつくろう!」

 今日は5月5日、端午の節句です。男の子のいるお宅にはかぶとが飾られているかもしれませんね。今回はそれにちなんで、当館オリジナルの「かぶとのペーパークラフト」のご紹介です。少し難しいかもしれませんが、チャレンジしてみてください。  モデルになったかぶとは、豊岡市出石町の宮内堀脇遺跡から出土しました。この遺跡は室町時代に但馬国の守護であった山名氏の本拠・此隅山城(このすみやまじょう)のふもとにあり、発掘調査した場所は山名氏の重臣の屋敷跡と推定されています。 此隅山城と宮内堀脇遺跡 発掘調査の様子  出土したのはかぶとの部品である「鍬形台(くわがただい)」です。かぶとの前には「鍬形(くわがた)」という角のような飾りが付きますが、その根元にあって鍬形をかぶと本体(鉢といいます)に固定するための金具です。精巧な装飾が施された優品であり、上級武士にふさわしいものです。 宮内堀脇遺跡出土の鍬形台  それではペーパークラフトを作ってみましょう。まず下の写真をクリックしてpdfファイルを紙に印刷してください。サイズはお好みでけっこうです。少し厚めの紙の方が作りやすいでしょう。(2枚に分かれています)  次に台紙から部品を切り出します。少し細かいですから注意して切り出してください。    次に鉢(はち)を組み立てます。のりしろにのりを付けて貼り合わせてください。  次は「しころ」の両端を折り曲げて貼り合わせます。そのあと端を少し巻いてください。  最後に鉢、しころ、まびさし、くわがた・まえたての4つの部品を貼り合わせて完成です。うまくできましたか?大きな紙で作ると、小さなお子さんなら本当にかぶることができますよ。 (企画広報課 多賀茂治)

#自宅でも考古博 11 「弥生人の右利き左利きを推理する」

 サスペンスドラマや推理小説などで「犯人は左利きだ!」と、捜査員や鑑識の人が残された証拠によって犯人の利き手を推理する場面がありますよね。考古学でも、遺跡から出土する資料を手がかりにして、作った人や使った人が右利きか左利きかを推理することがあります。  まず、弥生時代後期の土器を見て見ましょう。この頃の土器は、平行する溝を刻んだ羽子板のような道具を使って土器の表面を叩きしめているため、その溝の痕跡が文様となって残っています。この溝状の文様は右上がりのものが圧倒的に多く、ごくたまに左上がりのものが見られることから、前者が右利きの、後者が左利きの土器製作者によってつくられたものと考えられています。 左側:左利き、右側:右利き (津万遺跡群/西脇市)  次に、弥生時代に稲穂を摘むのに使われた石庖丁を見てみましょう。  近畿地方で見つかる石庖丁は、刃の片面側だけが研がれています。そこで、刃の研がれた面をA面、研がれていない面をB面とします。  また、石庖丁を手に持つため、紐を通す穴が2つ開けられており、その位置は真ん中より少し片側に寄っています。 左側に寄った位置に穴が開けられた石庖丁(A面) (玉津田中遺跡/神戸市西区)  刃は片面側だけが研がれているので、裏返しては使いません。また、紐を通した穴の周囲には、長年の使用ですり減った「紐ずれ」の痕が見られます。   穴の角や表面がすり減っている 「紐ずれ」の箇所 は、 刃の研がれた面(A面)では2つの穴どうしを結ぶ方向(横方向)に、刃の研がれていない面(B面)では2つの穴からそれぞれ上方に観察されます。 石庖丁(B面)の紐ずれ(七日市遺跡/丹波市) 石庖丁の使用法  この紐ずれの法則から、図のような稲穂を摘む方法が推測できます。すなわち、刃の研がれていない面(B面)を上に向けて持ち、親指をのばして稲穂を挟み、刃の先を押し上げて手首を返すように「ぷつっ」と切るのです。 紐ずれと利き手  多くの石庖丁をみると、この2つの穴の位置が、A面から見て左側に偏っているもの(石庖丁①)と、右側に偏っているもの(石庖丁②)の2者あることがわかっており、使用法から考えて、前者が右利き用、後者が左利き用であると推定されます。  七日市遺跡(丹波市)で

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