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#自宅でも考古博 32 「発掘こぼれ話6 兵庫県三ツ塚廃寺の発掘」


 1972(昭和47)年、大学院1回生になって、初めて調査員として参加したのが丹波市市島町の三ツ塚廃寺(遺跡)という白鳳時代(7世紀後葉)の寺跡だった。
 春先に、西宮市にある甲陽中・高校の高井悌三郎先生が小林行雄先生を訪ねて来られていたのは知っていたが、そこで話が決まったのか、夏の発掘には三ツ塚に行くことになった。おまけと言っては何だが、その学年の後期の半年間、甲陽中学校で地理の非常勤講師をすることも決まった。


 神戸新聞の壇上重光さんと

 調査団長は高井先生で、現場監督は京都大学考古学研究会の創設者の一人である橋本久さん(大阪経済法科大)。主力は神戸大学考古学研究会のメンバーだった。宿舎は遺跡近くにあった済納寺保育園の板敷きの大部屋。
 調査員ということで、高井先生と橋本さんの指導を受けながら、かなり自由に掘らせてもらえ、たいへん勉強になった。しばらく辰馬考古資料館にいた大学の同級生の中田興吉さん(大阪学院大学)がいてくれたことも大きな助けになった。
 
 男子は大部屋で雑魚寝だったので、夜は大騒ぎ。ビール大ビン1本がちょうど入る丼茶碗でがぶ飲みする猛者が何人もいた。飲んでいる最中に雨が降りだすと、そのまま全員現場に駆けつけシートを掛けてまわった。帰る前に毎日掛けておけば良かったのに。酔っぱらってトレンチに落ちたのもいた。

 朝夕の食事はどこかの給食センターのものだったが、フライものが多く、1週間もすればイヤになった。ただ、カレーが出た時だけは大人気で競争になり、1杯目はかまずに流しこむものも現れた。
 印象に残っているのは味噌汁。旨い不味いの問題ではなく、時々異物が入っていたのだ。最初は短い紐などだったが、針金になり、最後は金の差し歯になった。ああー。それが当たった学生は二度と味噌汁を飲まなくなった。と言うことは、他のものは飲みつづけていたということだ。
 
 夏休みが終わり、学生が引きあげると、泊まるのは、ほとんど橋本・中田・和田の3人になった。午前2時、3時とトランプに興じ、それでも朝は7時起床。私は11月に結婚することが決まっていて京都にアパートを借りていたので、1週間で市島町の現場、京都のアパート、西宮の甲陽中学を三角まわりした。
 アパートには妻になる予定の人がすでに入っていたが、初めて帰った時、2間しかない部屋のテレビの前で若い男が寝そべっているのに驚いた。同じアパートの一つ隣の部屋のご主人だった。

 ところで、肝心の三ツ塚廃寺だが、中央に瓦積み・版築の基壇が3基、東西に並んでいた。中央が金堂で東西が塔だという。日本に3例しかない非常に珍しい伽藍配置らしいが、1例は茨城県の新治廃寺だという。何と奇しき因縁か。高井先生はその寺のあった常陸国新治郡の郡衙(郡の役所)の発掘で知られ、郡衙研究の先鞭をつけた人だったのである。ちなみに、もう一つの寺跡は兵庫県たつの市の奥村廃寺とか。
 この時には、兵庫県教育委員会の櫃本誠一さんと小川良太さんに初めてお会いした。
 
 最後に高井先生について一言。
 先生は1911(明治44)年生まれ。当時は60歳余り。細身・小柄で、もの静な優しい先生だった。われわれ子どもや孫のような学生の言うことを良く聞き、好きにやらせてくれた。私にはできない、褒めて育てるのがうまかったのだろう。だから、教え子から多くの考古学や古代史関係の研究者が輩出した。しかし、優しい瞳の奥には時に鋭い視線があったことを覚えている。自分には厳しい人だったのだろう。
 私がこの博物館へ来られたのも先生のお陰である。県の文化財保護審議会委員の後任として推薦いただき、無事20年ほど務めたことによるかと思われる。

 その先生について、三ッ塚の発掘で印象に残っているのは現場の写真撮影でのこと。
 晴天が続くと発掘は順調に進むが、遺構の写真撮影は、画面に変な影が写るのを嫌って雲待ちの状態になる。雲の影が遺構全体が覆うのを待つのである。そこで試されるのが撮影者の度量。先生は古い木製の脚付き箱形カメラを使っておられたので風があっても良くなかった。広げた手拭いを頭からかぶって、修行僧のように草陰に座ってジィーッと待っておられた。夕方、帰ってこられた先生に、どうでしたかと聞くと、ダメでしたと平然とおっしゃられた。

 その後、私もよく似た雲待ちをした。いい雲が来そうなのに、なぜか太陽の所へ来ると、横にそれたり、消えてなくなったり。ギラギラした太陽だけが目に焼きついた。そのたびに先生のことを思いだした。何歳になればあんな心境になれるのだろう。まだまだ青い。
 とはいえ、忙しかったが、充実した楽しい日々だった。
                               (館長 和田晴吾)

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