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今里幾次さんって?

  

今季の秋季特別展で取り上げている「播磨の考古学-今里幾次の弥生と瓦と駅家研究-」に登場する「今里幾次」さんとはどのような人だったのでしょうか?

 


チラシの説明文を読んでみると「銀行員としての職業をもちながら生涯にわたり考古学の研究を進めた」とあります。大学教授などの専門家ではなく、普通の民間会社員が兵庫県の考古学研究の黎明期を牽引した、ということのようです。

氏の研究活動の特徴は、綿密かつていねいに整理された調査記録、克明な資料の観察という地道で息の長い調査の裏付けの上に基づいた考察である、と言えるでしょう。

一方、銀行員としても地位のある役員にまで上り詰めています。

 

これは今でいうところの大谷翔平、二刀流の達人だった、といえるのではないでしょうか?

すごい人ですね。

 

そこで、ご本人が残された『播磨古瓦の研究』の中にある資料を参考に、今里幾次という人物に触れてみたいと思います。

 

今里氏と考古学との出合いは昭和11(1936)の秋と記されています。

氏は大正8(1919)生まれですので、当時の年齢は17歳。その年の春に兵庫県立姫路商業高校を卒業し、4月から五十六銀行(のちの神戸銀行)姫路支店で勤務を始められました。

 

子供のころ、家では予習・復習をはじめ試験勉強をするような人ではなかったということですが、勉強自体は好きで成績も悪くはなかったそうです。

ただ、家の経済事情や長男であるということから、進学をあきらめて銀行へ就職をされました。

 

本人としては、小学生のころから鉱物や地質が好きで、将来は秋田鉱専という当時では国内唯一の専門学校に行き、将来は鉱山技師になるという夢を抱いていたそうです。

地理・歴史は嫌いではなかったのですが、神話から始まる古代史には大きな不満を持っていました。そんなとき、古代人の残した遺跡・遺物を研究する「考古学」という学問があることを知り、新たなジャンルとして興味を持たれました。

どうやら、このあたりが考古学者としての始まりだったようです。

 

氏の持っていた初期のスクラップブックを開いてみると、冒頭には昭和8(1933)103日付け大阪毎日新聞の「奈良県石舞台古墳の発掘」という記事が貼り付けてあり、どうやらこの頃から記録の鬼としての片鱗が見て取れるようです。


銀行に勤め始めた年の12月には、兵庫県内で7つの銀行が合併するという大きな環境の変化があり、入行早々の新米行員にとっても慌ただしい日々が続いたそうです。

このような状況の中でも考古学の活動を記録する日記は怠らず、当初はメモ程度のものであったものがより詳細になり、昭和40年からは1日も欠かさず半世紀以上にわたって記録を続けてこられました。また、遺跡の訪問も休日のほとんどを利用しながら、より遠方へと拡大していったそうです。


遺跡調査を進めるなか、昭和14年(1939)に入会した「東京考古学会」の機関紙『考古学』に魅了され、そこから強烈な刺激を受けた氏の考古学熱は一段と燃え上がったそうです。

このころの成果としては姫路市辻井縄文遺跡、小山弥生遺跡の発見が挙げられます。当時、辻井遺跡は播磨地域の縄文遺跡として3番目に発見され,特に播磨の西側地域では最初の発見となりました。


その他の代表的な成果をご紹介します。

 皆さんにもよくご存じの出土品があるのではないでしょうか。


【駅家(うまや)研究】

小犬丸遺跡出土墨書土器(県指定文化財)


開館以来、考古博物館が研究テーマとしている「古代官道に関する調査研究」は、その先駆けとしても今里氏の功績は大きく、氏が1960年代から活発に発信された古瓦研究によって、早くから「小犬丸遺跡=布勢駅家」説を唱えられていました。 


そうした中、1985年度に兵庫県教育委員会によって小犬丸遺跡(たつの市)の発掘調査が行われ、幅7m以上の道路状遺構が長さ35mにわたって検出されました。出土した墨書土器の中には「驛」や「布勢井渡邊家」と書かれた文字が見つかり、小犬丸遺跡が布勢駅家であることを文字によって立証する有力な資料となりました。

ここに、「日本で最初に駅家であると確認された遺跡」として、全国に知られることになりました。




その出発点となった古瓦です。 

古大内遺跡出土軒丸瓦(当館蔵、今里コレクション)

駅家の所在地の特定については、瓦の研究が大きな役割を果たしてきました。その研究は氏が加古川市古大内遺跡の出土瓦を検討したことから始まります。その結果、あるまとまりをもった複数型式の軒瓦が播磨の寺院などの遺跡から出土することが確認され、その系譜関係を考察するとともに、その背景には播磨国府が関与していることを想定しました。

さらに研究が進められ、それらの型式の瓦に対して「播磨国府系瓦」と呼ぶことが提唱されました。そして、駅家跡にはこれら播磨国府系瓦が出土することを突き止められました。



【弥生土器研究】

        橋爪遺跡の土器を手に取る今里氏(昭和36年:自宅にて)

 

氏の古瓦研究は、播磨地域における奈良時代の瓦を始まりとして、播磨の国分寺、寺院、国府へと進み、さらに播磨から日本古代史研究へと大きく発展、拡大させていきました。

小学生時代の古代史への不満が、出土品を中心とした研究の原動力になっていたのではないかと思われます。

 

 

 

氏の功績は卒業された姫路商業高校のHP内の同窓会(琴陵会)記事「卒業生の活躍」にも紹介されています。

考古学者としても立派ですが、企業人としても神戸銀行の監査役まで務められ、相当の苦労、努力をされたようです。

本人の弁によると「本業がおろそか、と言われるのがイヤで銀行マンとしてひた走った」だそうです。

やはり単なる二刀流ではなかったんですね。

 

「今里幾次」という人物に興味を持っていただけたでしょうか?

 

今里氏からは当館にもたくさんの考古資料の引き継ぎを受けています。

 

 

今回の特別展では改めて氏の業績と資料を披露するとともに、氏の研究から発展した最新の考古学研究の成果についても紹介しています。

 

 皆さまのお越しをお待ちしています!

        秋季特別展「播磨の考古学-今里幾次の弥生と瓦と駅家研究-」

 

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