(ほったん)
この前は、銅鐸の下敷きになってえらい目にあったよ。全身絆創膏だらけだ。
やっぱり学芸員さんの注意はよく聞かないといけないな。
でも、こんなことぐらいで、落ち込むほったんじゃないからね。
今日も特別展で面白そうなものはないか見てみよ~っと。
銅鐸は青銅器という合金でできているということだったけど、作るためには溶かした金属を入れる型、「鋳型(いがた)」というものが必要なんだね。
鋳型は土で作るんだけれど、初めのころは石でも作っていたんだね。
これがその石製の鋳型の模型だって。
(学芸員)
やぁ ほったん懲りずにまた見学に来てくれたんだね。
そりゃあ 何といってもボクは将来の館長候補だからね。
この復元模型は、彫り込んだ鋳型に高温で溶かした金属を流し込んでいるところを再現しているんだ。
大阪府茨木市の東奈良遺跡では日本で唯一、完全な形を保った銅鐸の鋳型が見つかっているよ。
東奈良遺跡出土銅鐸鋳型及び鋳造関連遺物(茨木市立文化財資料館 所蔵)へー。石を彫るなんてとても大変そうだね。そのうえ細かい文様まで入れるなんて、ほんとに出来たのかな?
こっちの鋳型を見てごらん。これは赤穂市で見つかった石製鋳型で、銅鐸の上側の鈕(ちゅう)といわれる部分だよ。
上高野(かみこうの)銅鐸鋳型(赤穂市立歴史博物館 所蔵)
上の部分だけでこのサイズということは、全体は相当大きかったんだろうね。なるほど、丸い形の凹みもはっきりわかるよ。
高さは80cmくらいで石の鋳型としては最大規模なんだよ。これは大正時代に千種川の川原で発見されたんだ。でも発見当時は“銅鐸の鋳型”とは思わなくて、あるものに使われていたんだけれど、何かわかるかい?
こんな大きな石を持ち運ぶだけでも大変だから、使いようなんて無いんじゃないの?
その重さがヒントになるんだけれど、実は「漬物石」として使われていたんだって。
え~っ。こんなに貴重なものを・・・ ビックリ!
でもその後、さっき言っていた丸い形の文様がお地蔵様の光背(後光)のように見えたので、お堂を建てて、そこにおまつりしていたんだ。
それならよかった。漬物石では弥生の職人さんに怒られてしまうよ。
その後、時が流れて昭和51年に有年(うね)考古館長だった松岡秀夫氏による調査の結果、銅鐸の鋳型片であると判明したんだ。当時は全国で3例目の石製鋳型の発見だったんだよ。
いろいろな歴史があったんだね。
ところで鋳型の材料が石製から土に変わったのはなぜなの?
それには二つの理由があって、一つは「石は硬い」ので細かい文様を彫り込むには大変な労力が必要だったこと、二つ目は「石の重量」で大きな銅鐸を作ろうとすると鋳型が重くなり過ぎて取り扱えなくなってしまうからなんだ。
ただ、反対に利点もあって石はとても硬いので壊れにくい。だから、一つの型を使って何回も銅鐸を作ることができたんだ。
こちらのパネル地図を見てごらん。これは同じ鋳型で作られた「兵庫県出土の銅鐸」の分布図だよ。
兵庫県で出土した銅鐸とサイズ・文様が同じものが遠く離れた島根県でも発見されているということだね!
なるほど、これは石の鋳型のメリットだ。
このような同じ鋳型で作られた銅鐸を同笵(どうはん)銅鐸というんだ。いわゆる銅鐸の兄弟だね。石の鋳型といっても傷もできるので、傷の有無で製作順、つまりどちらがお兄さんかといったこともわかるんだよ。
ここに展示している中山銅鐸も同笵銅鐸なんだよ。
どちらも高さは約42cmで正面の身(み)という筒の部分の文様も“袈裟襷(けさだすき)文”という同じ文様になっているよ。
中山1・2号銅鐸:宝塚市(複製)
ホントウだ。まさに瓜二つだね。これは同じ場所で出土しているので、作られてからずっと一緒にいたんだね。
今日はとても勉強になったよ。
春季特別展も会期の半分を過ぎたので学芸員さんも頑張ってね!
※「漬物石」にされていた石製鋳型にまつわるお話を、当館のボランティアグループ考古楽倶楽部の「紙芝居を作る会」の皆さんが作成し、公演を行っています。開催日は下記のとおりです。この銅鐸物語以外にも別の面白いお話もあるようですよ。
紙芝居 開催日:毎週日曜日 14:00~14:30
春季特別展「弥生の至宝 銅鐸」は6月29日(日)まで!