坂元遺跡は、加古川左岸(東側)の加古川市野口町坂元の野口段丘にある遺跡です。
この遺跡の北西約500mには東播磨を代表する複合遺跡である溝之口遺跡があります。
坂元遺跡も近年の調査によって、旧石器~中世に至る代表的な複合遺跡であることが判明しています。
これら遺跡の立地する段丘上やその周辺では、遺構は伴わないものの旧石器時代の遺物が採集されています。
弥生時代以降になると遺跡数は増加し、加古川左岸(東側)では溝之口遺跡や美乃利遺跡、右岸(西側)では岸遺跡、砂部遺跡など拠点的な集落が弥生時代中期に現れてきます。
坂元遺跡でも中期~後期の集落や四角の浅い溝を巡らし土を盛った方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)などが見つかっています。
古墳時代になると両遺跡の北東方向に位置する日岡丘陵から西条にかけて、前方後円墳を中心に古墳が築かれており、坂元遺跡でも削り取られた古墳が見つかっています。
溝之口遺跡、坂元遺跡ともに古墳時代の集落が認められ、坂元遺跡では6世紀前半の埴輪窯が見つかっています。
古代の遺跡周辺は、播磨国加古郡にあたり『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』の「馬家里(うまやのさと)」、『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の「賀古郷(かこごう)」にあたると考えられます。
遺跡南側には古代山陽道が通り、「賀古駅家(かこのうまや)」と考えられる古大内(ふるおうち)遺跡から1kmほど東に位置します。
坂元遺跡はこれまで3ケ年にわたって発掘調査を実施しており、弥生時代の 方形周溝墓群、古墳時代の集落及び埴輪焼成窯、奈良時代の役所跡と思われる建物群、中世集落、水田跡などが見つかっています。
また、国道2号線に面する地区の発掘調査では、奈良時代の農村集落跡、弥生時代から古墳時代の翡翠(ひすい)製勾玉(まがたま)や耳たぶにつける飾りである耳環(じかん)などを含む遺物も出土しています。
古墳はいずれも削られ、埋葬施設が残っていたのは3基でしたが、うち2基からは水銀朱が検出され、1基の水銀朱は鮮やかな朱色で、棺内全域に撒かれていました。
水銀朱を葬送儀礼に用いるのは、近畿から瀬戸内沿岸地域の主要な古墳にみられますが、坂元遺跡の小規模な古墳にも用いられていることが判明しました。
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当時の担当調査員に話を聞くと
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坂元遺跡・溝之口遺跡遠景 |
坂元遺跡も近年の調査によって、旧石器~中世に至る代表的な複合遺跡であることが判明しています。
弥生時代以降になると遺跡数は増加し、加古川左岸(東側)では溝之口遺跡や美乃利遺跡、右岸(西側)では岸遺跡、砂部遺跡など拠点的な集落が弥生時代中期に現れてきます。
坂元遺跡でも中期~後期の集落や四角の浅い溝を巡らし土を盛った方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)などが見つかっています。
古墳時代になると両遺跡の北東方向に位置する日岡丘陵から西条にかけて、前方後円墳を中心に古墳が築かれており、坂元遺跡でも削り取られた古墳が見つかっています。
溝之口遺跡、坂元遺跡ともに古墳時代の集落が認められ、坂元遺跡では6世紀前半の埴輪窯が見つかっています。
古代の遺跡周辺は、播磨国加古郡にあたり『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』の「馬家里(うまやのさと)」、『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の「賀古郷(かこごう)」にあたると考えられます。
遺跡南側には古代山陽道が通り、「賀古駅家(かこのうまや)」と考えられる古大内(ふるおうち)遺跡から1kmほど東に位置します。
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周辺の遺跡 |
また、国道2号線に面する地区の発掘調査では、奈良時代の農村集落跡、弥生時代から古墳時代の翡翠(ひすい)製勾玉(まがたま)や耳たぶにつける飾りである耳環(じかん)などを含む遺物も出土しています。
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坂元遺跡調査区 |
今回の調査では、竪穴住居2棟、掘立柱建物4棟、古墳4基、木棺墓2基、、土坑墓(土の中に穴を掘っただけで死んだ人を葬った墓)4基が見つかりました。
古墳はいずれも削られ、埋葬施設が残っていたのは3基でしたが、うち2基からは水銀朱が検出され、1基の水銀朱は鮮やかな朱色で、棺内全域に撒かれていました。
水銀朱を葬送儀礼に用いるのは、近畿から瀬戸内沿岸地域の主要な古墳にみられますが、坂元遺跡の小規模な古墳にも用いられていることが判明しました。
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赤い水銀朱 |
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ガラス小玉、管玉 |
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古墳は別府川の段丘上にあったものが、後世に削りとられた状態となっており、掘ってみてどうなるかわからない状況だった。
しかし、思いがけず連続して古墳が出てきてびっくり、小さな古墳でありながら貴重な水銀朱が撒いてあることにまたびっくりだった。
貴重な水銀朱を撒かれた古墳の主はどんな人なのだろう、興味は尽きないところです。
しかし、思いがけず連続して古墳が出てきてびっくり、小さな古墳でありながら貴重な水銀朱が撒いてあることにまたびっくりだった。
古墳の発見が発掘調査期間の終盤の冬のしぐれの時期であったため、テントを張って雨を除け、竹串に小さいガラス玉を刺しながら集めた。
ここは削りとられる前、坂元の集落を見下ろせる古墳にふさわしい場所であったということが、発掘してようやく認識できた。
ただ、中世に遺跡を壊して大きな溝がつくられているが、これが何なのか謎が残った。
と、いうことでした。
貴重な水銀朱を撒かれた古墳の主はどんな人なのだろう、興味は尽きないところです。