(ほったん)
縄文人の主食が肉や魚じゃなくて、植物、木の実だったという話には驚いたよ。
縄文人というと最初に展示室で見た、弓矢などを持って狩りをしている印象が大きいからね。
(学芸員)
そうだね。やはり狩りはうまくいく時もあれば、失敗する時もあるから、植物、木の実の方が安心できるからね。縄文時代は気候も暖かかったから、木の実もたくさんとれたんだ。
(ほったん)
でも、木の実が育つのを待つより、自分で育てるようにすれば、もっと安心して過ごせたんじゃないかな。
弥生時代になれば、お米が食べられるようになるのに残念だね。
(学芸員)
そうだね。でも実は縄文時代でも栗などの植物がよくできるように管理したり、ヒョウタンなどの有用植物の栽培もしていて、お米も食べられていたようなんだ。
(ほったん)
そんなはずないよ。縄文人は狩猟民族、弥生人は農耕民族って聞いたことがあるから、縄文時代に米づくりはしていないよ。
(学芸員)
以前はそのように学校で勉強してきた人もいるけど、その後の研究で変わってきているんだ。
そもそも、稲作についての発見は静岡県の登呂(とろ)遺跡の存在が大きいんだ。
太平洋戦争中の昭和18年、軍需工場の建設時に、土の中から土器や農具などが偶然に見つかり、戦後になって本格的に調査した結果、多数の住居や高床倉庫、水田跡が発見され、弥生時代後期(約2000年前)の稲作を中心とした集落(登呂ムラ)の姿が明らかになったんだ。
この大発見で、戦後考古学の先駆けとなった遺跡であることが評価され、弥生時代の遺跡としては初めて、国の「特別史跡」に指定されたんだよ。
でも、その後、九州の福岡県や佐賀県にある縄文時代終わり頃の遺跡などから木製の農具やイネのモミ痕、プラントオパール(葉の細胞にできるガラス質のもの)、それに小さな水田跡が発見されたんだ。
これらの発見により、弥生時代よりも早い時期に大陸から稲作が伝わっていたことがわかったんだ。
ただ、現代から見ると「縄文」とか「弥生」として区別しているけれど、当時の人々が「私は縄文人」と意識していることは無いから、ここまでは縄文時代でここからは弥生時代という線を引くのはなかなか難しいんだ。
(ほったん)
そうだったんだ。今の研究結果では、稲作は弥生時代よりも前から行っていたということなんだね。
やがて、水田稲作が全国的に始まって定着し、弥生時代になるということか。
田んぼに水を入れて育てるなんて、知識や技術がないとなかなか難しいんじゃないかな。
(学芸員)
そうだね。お米をつくるためには、まず土地を耕し、水が適度な深さに貯まるように畦や水路をつくらなくてはいけないから大変だったろうね。
そのためには新しい道具が必要になるので、その道具をつくるために、いろいろな種類の石の斧が使われたんだ。
堅いアカガシの柄に重い石を取り付けた斧(おの)は大きな木を切り倒すためのもの。
そして、その木を加工するために扁平片刃石斧と柱状片刃石斧。扁平片刃石斧は今のカンナのように、木を削るためのもので、柱状片刃石斧は大小様々な大きさのものがあり、木を細かく削ったり、穴をあけたりするのに使われていたんだ。
このような道具を使って、木のスキやクワをつくっていたんだ。
(ほったん)
そうか、イネがあっても道具がないと米づくりはできないもんね。
水田で使ういろいろな道具や、その道具をつくるための道具は、縄文時代にはなかったけれど、朝鮮半島から来た人たちが米づくりの技術といっしょに道具づくりを伝えてくれたお陰で稲作が本格的に始まったということだね。
これからは、その人たちにも感謝しながらご飯を食べないといけないね。