会期中盤に入った企画展「壱岐の古代文化」。
8月10日(土)に関連講演会第3弾「壱岐の古墳時代―280基の古墳が物語る壱岐の古墳文化―」を開催しました。
講師は、壱岐市からお招きした田中聡一学芸員(壱岐市教育委員会社会教育課係長)。
壱岐島は対馬島とともに「朝鮮半島の南部と九州の北部の飛び石」
と例えられました。中継点の役割が、その位置からもわかります。
続いて壱岐の位置と地形、一般的な古墳時代についての解説があり、
壱岐の古墳についてのお話に入られました。
会場は、今回も満員です(ありがとうございます)。
壱岐にはおよそ280基の古墳があり、隣の対馬では4世紀後半に古墳造りが
始まっているようだが、壱岐では5世紀後半(今から1500年ほど前)の
大塚山古墳が最古。ただし今後の研究がすすめば、さらに古い時期の
古墳が見つかる可能性がある、と説明されました。
死者が葬られた石室の形や使われた石の種類、大きさなどを中心に
古墳の研究が進められてきた、とのことです。
6世紀の後葉に大型の前方後円墳が現われ、7世紀初頭にかけて大小の古墳が
数多くつくられますが、石室の形や墳丘の築き方に規格性があり、
専門の技術者がいたこともうかがわせる、とのこと。
副葬品で馬具や土器には新羅との関係を伺わせる遺物も出土し、
複雑な交流関係が伺える、と指摘されました。
壱岐の古墳は5~6世紀の日本国内や日本と朝鮮半島南部の緊張関係が
反映し、倭の五王が中国に使節を派遣したころ(5世紀)また
筑紫君磐井がヤマト政権と争う時期(6世紀前葉)の前後に、
古墳の特徴が変化すると説明されました。
「筑紫君磐井」の戦争は、当時の朝鮮半島とヤマト政権の対立や、
九州の諸豪族を巻き込んだ大きな戦乱で、壱岐をはじめ北部九州の
古墳は、それらを造った豪族が朝鮮半島やヤマトとどういった関係が
あったのか、を知る大きな手掛かりになる、と説明されました。
また世界遺産「沖ノ島関連遺跡」との関係についても触れられ、
壱岐の古墳時代は、まだまだ多くの謎に包まれている、
と締めくくられました。
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講演会の終了後、企画展開催中の展示室に移動し、
田中先生が先ほど講演会で説明のあった展示品に
ついて、解説してくださいました。
講演に登場した資料について、実物を見ながらの説明は興味深く、
多くの方が講演の余韻を確かめるように、見学しておられました。
多くの方が講演の余韻を確かめるように、見学しておられました。
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企画展「壱岐の古代文化」もいよいよ後半戦。
壱岐島の幅広い交流が表れた展示品は魅力いっぱいです。
古代文化の玄関口である壱岐の魅力にも触れてみませんか。
ご来場お待ちしております。