三田城跡は兵庫県の南東部、三田盆地に位置する三田市にあります。
このあたりは、鎌倉、室町時代にかけて集落の再編が進み、南北朝の終わり頃には国人有馬氏が台頭してきます。
盆地内の低地部や丘陵上には中世城館があり、国人有馬氏の城ではないかと考えられていますが、実態はつかめていません。
三田城も南北朝時代に赤松円心の四男氏範が基礎を築き、有馬氏祖の義祐が修築したとされる説や五代有馬則景の時に築かれたとする説があるなど明らかではありません。
三田城が城として整備された時期が判明しているのは、天正年間に荒木氏が三田の支配を始め、荒木平太夫が城主となった時です。

荒木氏が織田信長に背くと天正六年に織田軍に攻められ落城。
その後、池田氏、三好氏の支配を経て、天正十年(1582)から山崎氏二代の支配を受けました。
この時、三田城は瓦葺の織豊系城郭として整備されました。

関ヶ原の戦いにおいて西軍についた山崎氏は因幡若桜に転封され、東軍だった有馬則頼が入封しますが、この支配も短期間に終わり、その後20年以上も福知山城主有馬豊氏の預かり領となり三田城は荒廃が進みました。
寛永三年(1626)に有馬豊氏が筑前久留米に移封となると、松平重直が出羽国より入封しますが、寛永十年(1633)には豊前国へ移封となり、同じ年に九鬼氏が三田に入封し三万六千石を治めました。
九鬼氏は、従来の三田城を廃して古城とし、城域の南部と西部を三田陣屋として整備し、その後、明治四年(1871)まで、九鬼氏十三代が三田藩主として有馬郡を支配しました。
兵庫県立有馬高等学校は、敷地全体に三田城跡及び古城遺跡があります。
今回の調査は、講義棟新築事業に伴うものです。
いままで三田城跡ではあまり知られていなかった16世紀後半代の土塁が見つかりました。
その時期の城主は有馬氏8代村秀より10代国秀に当たり、城が有馬氏の本城として体裁を整えた時期と考えられています。
土塁の盛り土からは、15世紀の代の土師器鍋、丹波焼甕、輸入陶磁器などが出土し、今回見つかったものよりも、さらに古い土塁の存在を窺わせています。


見学にやってくる高校生向けに、調査内容を解説した看板を取り付けたり、生徒対象の説明会も開き、2クラス70名ほどの生徒及び教職員の参加がありました。
調査員にとって、どこまで行くのか、いつ果てるのかがわからない、ただただ土塁と格闘した遺跡でした。