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投稿

東風吹かずとも  梅咲いています大中遺跡

昨日までの雨が上がり、東風(こち)は吹かず、冷たい北西の季節風が吹いています。 しかし、季節は立春、雨水を過ぎて啓蟄に向かい、今日の日の光は、ロシアの2月を表す 光の春 を感じさせてくれます。 2月6日にこのブログで紹介した博物館西エントランスの紅梅、こんなにたくさん咲いています。 今日は梅を目当てに来られた方々が、たくさん入館されています。 博物館東からでも、存在を誇示しています。 二枚の写真に写る考古博物館のシンボル、 展望塔 の紹介ブログは こちら です。 一方、博物館隣の弥生の村跡、大中遺跡公園では、 椿は蕾のままですが、山茶花が花びらのカーペットを広げています。 公園の梅林は、これからが見頃です。 梅は満開より、このくらいがいいのでは。 青空と白い雲に、梅の紅が映えます。 弥生の時代の復元竪穴住居と紅梅です。 弥生の人達も眺めていたのでしょうか。 白梅はまだ蕾です 梅を愛でていただいて、博物館で、展示、体験講座をお楽しみください。 電車なら、JR土山駅、山陽電車播磨町駅から徒歩で、車なら第2神明・加古川バイパス明石西ICからが便利です。 JR土山駅からのアプローチブログ こちら です。 山陽電者播磨町駅からのアプローチブログは こちら です。 お待ちしています。

播磨国風土記がやってきた

特別展「 播磨国風土記 - 神 ・ 人 ・ 山 ・ 海 - 」 2013.4.20(土)~6.23(日) 長い間、生みの苦しみを続けていた特別展のポスター、チラシが出来上がり、博物館内各所に掲示したり、置いています。 掲示ゾーン 一番右 情報プラザのガラスにも貼りました チラシは情報プラザや受付カウンターに置いています。 播磨国は律令時代の国のひとつです。 今から1300年前、和銅6(713)年に元明天皇の詔(みことのり)により、郡郷の名、各地の産物や土地の肥沃度、地名の由来、故事伝承などをとりまとめることとなりました。 その頃の国の数は約60といわれていますが、とりまとめられた風土記が残っているのは、出雲国、常陸国、肥前国、豊後国、そして播磨国の5国だけです。 播磨国風土記には、賀古(かこ)郡、印南(いなみ)郡、飾磨(しかま)郡、揖保(いひぼ)郡、讃容(さよ)郡、宍禾(しさは)郡、神前(かむさき)郡、託賀(たか)郡、賀毛(かも)郡、美囊(みなぎ)郡の記載があります。 (神戸市の一部が含まれる明石郡、兵庫県の西の端である赤穂郡は記載されていません。) 我々はこの貴重な風土記の節目の年に生きています。 今回はこの風土記の世界を、考古学の分野からご案内していく展覧会です。 これがチラシです。 文字が躍っています。文字密度が高いです。   学芸員には、次の生みの苦労がやってきます。

土器を新調 日々精進の手仕事がつくりだしました

考古博物館の東入口のところに、土器を並べています。 このたび、考古博物館ボランティアの 「土器づくりグループ」のみなさんに、新しくつくっていただきました。 大中遺跡から出土した甕と壺の 実測図に基づく忠実な再現、いわゆる実測土器づくりで生み出されています 。 ただ、乾かして焼く過程で、1割ほど小さくなるそうです。 今日も土器づくりが続いています。 粘土を紐状にして巻き上げ、積み重ねていきます。 池ノ下遺跡(姫路市)出土の高坏(たかつき)です。 内部も念入りに仕上げて、 模様の入った土器も、丹念に再現していきます。 考古博物館が行う 土器づくり講座 は、ボランティアの皆さんによって支えられています。 日々精進 こうして、講座のための技術向上が図られています。

2月23日(土)講演「邪馬台国時代の集落-長越遺跡の調査から-」

次回の考古学研究最前線の講演では、邪馬台国、卑弥呼の時代、 どんな住居に住んでいて、どんな暮らしぶりであったのかが語られます。 講師は、 兵庫県を代表する弥生時代から古墳時代初頭の集落跡 である姫路市飯田の長越遺跡に40年近く前から関わる、 兵庫県まちづくり 技術センター埋蔵文化財調査部 渡辺昇副課長 です。 火事はいつの世にも最も恐れられるものの一つです。 邪馬台国時代にも火事はありました。 長越遺跡での住居焼失による 最新の研究成果が発表されます。 あわせて、播磨の庄内式土器の広がりについても述べられます。 「兵庫考古学研究最前線  2012 」   講演「邪馬台国時代の集落-長越遺跡の調査から- 」        平成25 年2 月23 日(土) 13:30 ~ 15:00        当館講堂にて 当日 (13:00より) 受付、定員120名、入場無料 渡辺さんによる 「ひょうご の遺跡」 長越遺跡、焼失住居特集号は ここ をクリックしてください。 博物館ブログの企画展にかかる長越遺跡は ここ をクリックしてください。

曽我井・沢田遺跡 企画展 ひょうごの遺跡 Vol.5から

今回は、兵庫県多可郡多可町曽我井地区にある奈良時代、平安時代、中世の集落遺跡である曽我井・沢田遺跡をご紹介します。 曽我井地区には、瀬戸内側の明石市を起点として、兵庫県北部但馬地域の朝来市を結ぶ幹線道路である国道427号線が走っています。 今回の発掘調査は、この国道427号線バイパス工事に伴い行われました。 曽我井地区遠景(東から) 多可町は妙見山(標高692.6m)を最高に、標高100~400m級の山地に囲まれた谷盆地を形成しています。 中央を加古川に至る杉原川が南流し、その周囲に氾濫原、河岸段丘、扇状地などの地形が発達しています。 遺跡は杉原川右岸(西側)に発達した河岸段丘・扇状地の上にあります。 曽我井・沢田遺跡 12棟の掘立柱建物が発見され、8世紀から13世紀にかけて継続した古代の集落の姿が明らかになりました。 人形(ひとがた)や 斎串( 斎(い)み清められた神聖な串) などの木製祭祀具(もくせいさいしぐ)とまじない が描かれている呪符木簡(じゅふもっかん)、「宗我(そが)」、「宗我西(そがにし)」といった地名・姓名に関する墨書土器(ぼくしょどき)や建物を表す「西殿」の墨書土器が出土し、大型の掘立柱建物が発見されています。 「宗我」、「宗我西」と記されている墨書土器については、「宗我」は「そが」と読めることから、現在の地名「曽我井」、近世初期の「播磨国絵図記載の下そがい村」の名のルーツが8世紀に遡ることが判明しました。 また、正倉院文書には奈良時代の播磨国多可郡奈何郷に宗我部(そがべ)を名乗る人々が住んでいたことが記されています。 出土土器 出土人形・木簡 人形出土状況 墨書土器 発掘した調査員によれば、 調査区域は旧の谷の湿地状ののところであり、 最初に調査区の北西部分から発掘した。 そこで人形(ひとがた)を発掘。 人形がでれば墨書土器も現れる確率が高いので、期待して調査していたがなかなか現れず、 だいぶ経ってから墨書土器が見つかった。 村のはずれは外れることが多いのに、ラッキーだった。 しかもその文字が当地の地名を表す「宗我」という文字であったため、そこから猛勉強して報告をまとめた。 ここは曽我井地区の西端であり、...

神出遺跡 企画展 ひょうごの遺跡 Vol.5から

神戸市西区神出(かんで)には、平安時代から鎌倉時代にかけて、瓦、須恵器を生産した神出古窯跡群があります。 A地区調査地遠景(南から) 雌岡山(めっこさん)を中心に分布し、数基から10数基が単位となる支群によって構成されています。 また、これら総数100基を超える窯跡以外に、それに伴う集落跡や粘土採掘坑が発見されたことによって、瓦、須恵器生産過程の一端が明らかになっています。 B地区調査区遠景 現在の雌岡山西南麓一帯は、近世以後に開発された新田地帯となっていますが、窯跡とそれに伴う遺構の存在が確認されています。 ちなみに、雌岡山(めっこさん)があれば雄岡山(おっこさん)という山もあります。 C地区全景南から 今回の発掘調査は国道175号神出バイパス建設に伴い、4調査区で行いました。 D地区調査区遠景(西から) 今回の調査では窯そのものの調査は行われていませんが、大型掘立柱建物や炭窯など、須恵器生産に付随する工房関連の遺構が発見されました。 須恵器鉢、甕、瓦などの大量の製品の他に、青磁、白磁の輸入陶磁器や当時の身分の高さを象徴する 檜(ひのき)の 檜扇(ひおうぎ)など有力者の所有物が出土しています。  檜扇は、年輪が平行にあらわれる柾目(まさめ)の檜の薄板を重ね、下端の穴に糸を通して要(かなめ)とし、上端を糸で綴った扇で、準正装である衣冠(いかん)または平服である直衣(のうし)において、笏(しゃく: 男性の官人が束帯を着用した際に威儀を整えるため右手に持った木製の板) にかえて用いるものです。 即ち、皇族や貴族、(受領、国司クラスも?)等、高い身分を象徴するものです。 遺跡からの出土例としては、平城京左京三条の長屋王邸跡(奈良時代)、美作国府跡(奈良時代)、平安京・鳥羽離宮跡(平安時代:12~13世紀)等があります。 檜扇という当時の身分の高さを象徴するとも言えるものが流路から出土したことは、ここに、この様な持ち物を持ち得る階層、入手できる階層の人がいたことになります。 それが、受領や国司、または在庁官人層に代表される在地勢力であるかは定かではありませんが、窯業生産に関わる直接的・間接的、且つ積極的介入を背景とした様々な交流の中でこの地にやって来ることになっ...

市之郷遺跡 企画展ひょうごの遺跡Vol.5から

市之郷遺跡は、JR 姫路駅の東側にある、弥生時代から室町時代にかけての遺跡です。 市之郷遺跡全景 南上空から 姫路市は、古代においては山陽道を中心とした交通の要衝として、江戸時代以降は姫路城を中心とした城下町として栄えてきたところです。 市之郷は旧城南村大字市之郷にあたり、姫路城の城下町の南東側周辺部に位置します。 市之郷という地名は、平安時代から鎌倉時代にかけて、当地に「飾磨の市」が立っていたことに由来するものです。 「枕の草子」をはじめとして、多くの和歌にもうたわれ、都にも知れ渡るほど大きな市であったようです。 市之郷遺跡全景 東上空から 調査地遠景 東上空から 市之郷遺跡の調査は、姫路市教育委員会によって第10次まで、兵庫県教育委員会によって第5次まで行われています。 今回の展示については、県営住宅建替工事に伴う県教育委員会の第3次調査分となっています。 当遺跡は市川右岸(西側)に形成された遺跡で、大きく西側の地区と東側の地区に分かれますが、今回は東側(日出町3丁目)の遺跡調査ということになります。 弥生時代後期末から古墳時代初頭の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)などが見つかり、大量の土器が出土しています。 しかし 長越遺跡 のところで紹介した庄内式甕は1点も含まれていません。 讃岐や山陰地域の特徴をもつ壺や甕がみられます。 また、古墳時代初頭の12.6m×4mの掘建柱建物跡が見つかっています。 この時期の大型建物は例が少なく、何か特別な建物だったかもしれません。 調査地全景 東上空から 上の画像左下中央部の住居が使われなくなった跡に、一括して捨てられたと考えられる土器溜も見つかっています。 この土器溜では、壺、甕、鉢、高坏、器台が出土しています。 この夥しい土器片の出土位置、種類等を含む状況も、しっかりと調査しています。 土器溜土器  復元すると、こうなりました。 土器溜出土土器 出土土器(土器溜以外) 古墳時代(須恵器・土師器) 狭い調査区でありながら大量の遺物が出土してきたため、 担当調査員にとっては、 工事日程に追われながらの必死の調査であったようです。

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