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今年の夏季企画展はコスパがいいね!

ここ数年の夏季企画展では、①前年度に兵庫県教育委員会が実施した発掘調査の成果、②同年度に刊行した報告書掲載の資料、などを展示していますが、 今年度はそれに加えて、③丹波地域の弥生土器、④加西分館「古代鏡展示館」の逸品、も紹介しています。   ひと つの展示会で4種類の展示が楽しめるお得な企画となっています。   そこで、今回のブログは④「古代鏡」にスポットを あててみました。  まず、古代鏡は何でできているのか。  ガラス? 確かに現代では透明なガラスに銀を貼り合わせて作るのが基本ですが、古代の鏡は、銅に錫(スズ)、鉛などを混ぜた合金でできています。金属に映すという意味では今も古代も同じですね。  アレ? 同じような合金で作られた展示品って最近目にしませんでしたか?  そうです。春季特別展で主役となっていた銅鐸と同じ「青銅」という 合金 でできています。  ですからこれらの鏡は「青銅鏡」(通称「銅鏡」)と呼ばれていて、年月が経過すると銅鐸のように青サビ(緑青:ろくしょう)により緑色になってしまいます。 (ちなみに古代の鏡は紋様のある面の裏側で映します)                                  環状乳神獣鏡  たまに、来館者の方から 「どうしてサビをそのままにして展示するのか? きれいに磨かないのか?」 といった質問を受ける時があります。  その答えは「資料の破壊につながる」のと、「緑青には良いサビもある」からです。  緑青は、サビの原因である酸素や水分、二酸化炭素などが銅合金に触れ、金属の表面に発生しますが、このサビが被膜を形成することによって金属内部を腐食から保護する効果が期待できるのです。緑青に覆われた屋外の古い銅像が朽ちてしまわないのはこのためです。  同じサビでもブロンズ病と呼ばれる悪いサビは、腐食、崩壊を進めるため、削り取ってしまう場合もあります。  それから、全面を きれいに ピカピカに磨いてしまうより、サビが進んだものを好むといった 日本人の特有の感性 があることも一因でしょう。まさに侘び寂び(わびサビ)の世界です。  さて、このような青銅の鏡を作りだしたのは古代(紀元前2,000年頃)の中国で、その後、弥生時代になって中国や朝鮮半島から日本に伝えられました。    以下は、常設展示室にあ...

七夕と鏡と旧暦

    7月に入り、考古博のエントランスホールも七夕バージョンに衣替えです。 7日は七夕。彦星(ひこぼし=牽牛(けんぎゅう))と織姫(おりひめ=織女(しょくじょ))が天の川を渡り、年に一度合うことが許されている日です。 このとき、天の川に橋をかけ、二人の出会いを助けるのが「鵲(じゃく)」、すなわちカササギという鳥です。 この伝説は中国のものですが、古代の日本人にも知られた有名なお話だったようで、 「かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きをみれば 夜ぞふけにける」 (奈良時代の歌人「中納言家持」)という歌の存在からもうかがえます。 カササギというと宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にでてきた覚えはあるけれども、実物を見たことがあるという人は恐らく少ないのではないでしょうか。調べてみると九州方面に多く生息しているようで、佐賀県の県鳥にもなっているようですが、全国的な繁殖はしていないようです。    実物のカササギを見ることは難しいかもしれませんが、カササギが表された中国の鏡なら、見ることができます。 その鏡は加西分館「古代鏡展示館」に保管されているので、ぜひこの機会を利用して、ご紹介したいと思います。 鏡(背面)の左右に配置されている鳥がカササギです。  「月宮双鵲銜綬龍濤紋八花鏡(げっきゅうそうじゃくかんじゅりゅうとうもんはっかきょう)」(唐の時代)【 加西分館「古代鏡展示館」 所蔵】   名称を説明すると、 ①<月宮>(げっきゅう) 月(円の中にウサギ・カエル・桂樹がある)の紋様 ②<双鵲銜綬>(そうじゃくかんじゅ) 向かい合うカササギが、鈴付きの紐(綬=じゅ)をくわえている紋様 ③<龍濤>(りゅうとう) 波しぶきを上げて飛翔する龍の紋様  の3種の紋様があり、 ④<八花鏡> 鏡の外形が八枚の花弁のような形をした鏡   となります。   中国では、カササギは男女の仲をとりもつおめでたい鳥と考えられていたようで、特に唐の時代に鏡の紋様として流行しました。左右に向かい合う対鳥形式は、幸せな恋愛や夫婦生活を願ったものとされています。 恋愛の成就を願い、夫婦円満に過ごすことができるよう、鏡に顔を映しながら化粧をした想いは、今よりもず...

銅鐸の展示について

   春季特別展「弥生の至宝 銅鐸」も残すところ、あと1週間あまりとなりました。 たくさんの方々にご来館いただきありがとうございます。 今回は展示室での観覧とともに、「銅鐸を鳴らしたら実際にどのような音が鳴るのか」という体験コーナーも設置しました。 また、週替わりで銅鐸の中の舌(ぜつ)を金属製、石製・・と付け替えていたので、その微妙な音色の違いを実感された方もいらっしゃるのではないでしょうか。 ところで、銅鐸の使用方法や用途についてはまだまだ謎の部分も多いですが、村の祭祀、おまつりの時に使用していたと考えられています。 こちらが、当館のテーマ展示室で、お米が無事に育つように大自然の怒りを和らげるため神に祈っている巫女(みこ)と銅鐸を再現した様子です。            実は、この展示方法は数年前に変更されたものです。 それまでは、左の写真のように銅鐸を手に持っていました。しかし今では、手には何も持っていません。               (改修前巫女写真+現在の巫女写真) ではなぜ、このように展示方法に変更があったのか。 それは、平成27年に南あわじ市で発見された「松帆銅鐸」が深く関係しています。 発見当時、松帆銅鐸は中に舌(ぜつ)と呼ばれる金属棒が入った状態で埋められており、上部の穴と鈕(釣り手)部分に植物繊維やその痕跡が残っていました。 それが証拠となり、銅鐸は、吊り下げられた舌が銅鐸内面にぶつかることで、音を出していることが明らかになったのです。これまでも銅鐸は鳴らすものと想定されていましたが、金属舌を伴う例は数少なく、紐状の繊維が見つかったのも初めての事でした。 この成果をもとに、当館では銅鐸の埋納状況を表す展示から、銅鐸の使用状況に重点を置いた展示、つまり紐で固定された銅鐸を打ち鳴らすことのできる展示に変更したのです。 展示の世界では、新たな資料の発見により、これまでの解釈に変更が生じ、展示方法を再検討するケースがあります。まさに今回がそのケースでした。 ところで、今朝、新聞を読んでいると「仁徳陵 唯一の副葬品確認」という記事が載っていました。内容を読んでいくと❝大山(だいせん)古墳❞との名称で記事が書かれており、注釈の地図には大山古墳(仁徳天皇陵)となっていました。 昔、授業で教わった❝仁徳天皇陵❞が知らないうちに❝大山古墳❞に名称が変更さ...

古代の米づくり体験

 古代の米づくり体験 今年も播磨町立蓮池小学校5年生の皆さんにお手伝いいただき、田植えを実施しました。 当日は曇りで気温は平年よりやや低めということで、絶好の田植え日和となりました。 今回植える品種は「ヒノヒカリ」と「ハリマモチ」の2種です。 ヒノヒカリはコシヒカリと黄金晴との交配で生まれたお米で、炊き上がりが日の光のように輝いていたことから名付けられたそうです。粘り、香り、味のバランスがよく、とても人気のある品種です。 ハリマモチは兵庫県産のもち米で、柔らかくて弾力があり、時間がたっても硬くなりにくい性質があるということで、どちらも成長が楽しみですね。 学芸員の笛の合図で一斉に苗を植えていきます。 しっかりと泥の中まで苗を差し込まないと、大雨の時に浮いてきてしまいます。 1組が終了。最初はコワゴワでしたが、終わってみると満足そうな表情が見られました。 足の泥がそれを物語っています。 田んぼの隣にある神社の神さまも静かに見守っておられることでしょう。 お米と神さまは古代から深い関係があり、神さまにお供えする食事、御神饌(ごしんせん)で最初にお供えされるのはお米です。 それから、”お米には七人の神さまが宿る゛といわれていて、それは、水、土、太陽、風、雲、虫、そして人(作り手)という七つの自然を指しているのだといわれています。 ところで、このイベント「古代の米づくり体験」とありますが、本当に古代の人はこのように田植えをしていたの?と思いませんか。 実は田植えのやり方は弥生時代のころからほとんど変わりなく今でも続いているのです。 もちろんトラクターやコンバインなどの機械はありませんが、湿地帯や水路を作って水を引き込んだ区画をつくり、そこに苗代で育てた苗を植えていたようです。 美乃利遺跡(加古川市)の水田【弥生時代前期】 【 兵庫県教育委員会 1997『美乃利遺跡』 】 農作業で使用する木製の鍬(くわ)、鋤(すき)、お米や種モミを保管するための高床式倉庫なども各地で見つかっています。 当館では秋の収穫時には、弥生人にならって石包丁を使った刈り入れを行っています。 田植えが終われば用水路で足をきれいに洗い流します。 弥生時代にもこのような光景があったことでしょう。 最終の3組も無事に終了。途中2組から「がんばれ!」の応援もありました。 残りの区画は職員とボランティアさ...

ほったん 懲りずに銅鐸見学

    (ほったん) この前は、銅鐸の下敷きになってえらい目にあったよ。全身 絆創膏だらけだ。 やっぱり学芸員さんの注意はよく聞かないといけないな。 でも、こんなことぐらいで、落ち込むほったんじゃないからね。 今日も特別展で面白そうなものはないか見てみよ~っと。 銅鐸は青銅器という合金でできているということだったけど、作るためには 溶かした金属を入れる型、「 鋳型(いがた)」というものが必要なんだね。 鋳型は土で作るんだけれど、初めのころは石でも作っていたんだね。 これがその石製の鋳型の模型だって。          復元模型(茨木市立文化財資料館 所蔵) (学芸員) やぁ ほったん懲りずにまた見学に来てくれたんだね。 そりゃあ 何といってもボクは将来の館長候補だからね。 この復元模型は、彫り込んだ鋳型に高温で溶かした金属を流し込んでいるところを再現しているんだ。 大阪府茨木市の東奈良遺跡では日本で唯一、完全な形を保った銅鐸の鋳型が見つかっているよ。  東奈良遺跡出土銅鐸鋳型及び鋳造関連遺物(茨木市立文化財資料館 所蔵) へー。石を彫るなんてとても大変そうだね。そのうえ細かい文様まで入れるなんて、ほんとに出来たのかな? こっちの鋳型を見てごらん。これは赤穂市で見つかった石製鋳型で、銅鐸の上側の鈕(ちゅう)といわれる部分だよ。       上高野(かみこうの)銅鐸鋳型(赤穂市立歴史博物館 所蔵) 上の部分だけでこのサイズということは、全体は相当大きかったんだろうね。なるほど、丸い形の凹みもはっきりわかるよ。     高さは80cmくらいで石の鋳型としては最大規模なんだよ。これは大正時代に千種川の川原で発見されたんだ。でも発見当時は“銅鐸の鋳型”とは思わなくて、あるものに使われていたんだけれど、何かわかるかい? こんな大きな石を持ち運ぶだけでも大変だから、使いようなんて無いんじゃないの? その重さがヒントになるんだけれど、実は「漬物石」として使われていたんだって。 え~っ。こんなに貴重なものを・・・  ビックリ! でもその後、さっき言っていた丸い形の文様がお地蔵様の光背(後光)のように見えたので、お堂を建てて、そこにおまつりしていたんだ。 それならよかった。漬...

ほったん銅鐸の裏側を覗く

  (ほったん) 今日は特別展の銅鐸を見に来たよ。 実は兵庫県は日本一銅鐸が出土しているんだって。ボクも兵庫県民として鼻が高いよ(ゾウの鼻並みに)   「銅鐸」は弥生時代を代表する青銅器なんだよ。かっこいいね。 ところで、青銅器ってな~に? あの学芸員さんに聞いてみよう。   (学芸員) 青銅器は複数の金属を溶かして、混ぜあわせた「合金」の一種なんだよ。 「合金」ってなんかカッコいいね。ということは、これは特別な材料でできた高級なものじゃないの? ところが、結構一般的にあるんだよ。 たとえば身近なものでは、お金だね。 5 円玉は銅+亜鉛、 10 円玉は銅+錫(スズ)、 100 円玉は銅+ニッケルの合金なんだ。 銅が主な材料となっていてプラスされる金属によって色が変わるんだよ。 5 円玉は黄銅、 10 円玉は青銅、そして 100 円玉が白銅というように呼ばれている。 銅鐸は 銅と錫の合金なので 青銅器と呼ばれるんだ。ただ、銅鐸には形を整える鋳造(ちゅうぞう)を簡単にするため鉛も混ざっているよ。 こちらの展示では、青銅に使われている金属の割合による色の変化が分かるよ。 なるほどね、でもよく考えてみると青銅って言っているけれど茶色じゃない?。茶銅が正しいと思うけど。   確かに元の色は赤みのある茶色から金色なんだけれど、実は銅は錆びやすくて、その錆は緑青(ろくしょう)と呼ばれていて青緑色をしているんだ。青銅というのは本来の色ではなくて錆びた状態を表しているんだ。             神種銅鐸(姫路市)復元品                        松帆銅鐸1・2号(南あわじ市所蔵) これは望塚(ぼんづか)銅鐸と 復元したものと並べて展示しているけど、 なるほど、こうしてみると色の変化がよくわかるね。 それにしても合金なんて、弥生人はそんな難しいことをよく知っていたね。 恐らく、手に入る金属を様々な割合で混ぜて、試してみたんだろうね。現代でも銅鐸を再現しようと実験してみたけれど、作業の途中で割れたり、穴があいたりの連続でかなり高度な技術と知識が必要だっ...

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