開催中の夏季企画展「ひょうご発掘調査速報2022-五国の逸品-」に関連して、発掘調査速報会が開催されました。
発掘調査を行っている公益財団法人兵庫県まちづくり技術センター埋蔵文化財調査部と考古博物館の共催です。
令和3年度に兵庫県内で実施した、中村群集墳(神戸市西区)、玉津田中遺跡(神戸市西区)、住吉川右岸遺跡(丹波篠山市)の発掘調査の成果報告です。
中村群集墳は、第二神明道路の建設に先立ち、昭和43年(1968年)に2基の古墳の発掘調査が行われ、古墳時代後期(約1,500年前)の群集墳として知られていました。
また、埋葬施設は「礫槨(れきかく)」と呼ばれる兵庫県内では類例のない、土ではなく大量の礫で埋められているもので、とても珍しく貴重な発見となったそうです。
玉津田中遺跡は、先ほどの中村群集墳のすぐ東にあり、縄文時代から古墳時代後期を経てさらに中世に至る集落遺跡で、弥生時代には明石川本流域における最大の拠点集落として発達したとのこと。
No.175地点では、中世の水田遺構と溝で囲まれた屋敷地が見つかり、1kmほど北東にあるNo.164地点では、古代から中世にかけて同じ場所で集落が営まれていたことが分かったそうです。掘立柱建物の詳しい位置や想像される建物についても解説がありました。
成果として、弥生時代後期の溝と弥生土器、古墳時代中期の竪穴建物と旧河道、奈良時代の掘立柱建物、焼土杭、土坑、柱穴、平安時代の溝に囲まれた掘立柱建物、溝、土坑、柱穴、鎌倉時代の木棺墓、土器埋納土坑などが発見され、多くの時代の遺構が同じ場所で見つかった複合遺跡であることが分かったとのこと。
これらのことから、住吉川右岸遺跡は、若干の断絶期間はあるものの、約1,000年にわたって人々が居住していたと言え、特に奈良時代から平安時代にかけての調査成果は丹波地域の古代から中世前半の集落形成が分かる貴重な資料になるそうです。
休憩を挟んで、後半の「報告遺跡についての討論会」が始まりました。
コーディネーターは、考古博物館の和田晴吾館長です。
3人の発表を聞いていて、「若い考古学者が出てきたな」と思ったそうです。
その3人を、いかに質問攻めでいじめてやろうかと密かに思われたそうです。
受けて立つのは、先ほどの発表者の3人です。
お客様の質問も交えながら、和田館長がまず質問したのは、中村群集墳の「礫槨」についてです。今回の発見を「日本で一番上等でわかりやすい礫槨で、いずれ教科書に載るんじゃないかと思います。」と言われました。
墓を作る時に、敷き詰める石の大小なども考慮していたと思われますか? 総重量は計算すると4.5トンくらいですか? 副葬品は見つかったのですか? 発見された土器片は礫のどのあたりで見つかったのですか? 等々の質問が次々と出されました。
担当者の作成したイラストや想像図などの出来栄え、検証の矛盾点の指摘など、和田館長の鋭い突っ込みにも、各担当者は懸命に答えていました。そんな中、和田館長の時折笑いを誘うような話し方が、シンポジウムや討論会をいつも楽しくさせてくださいます。
「発掘調査ですべてはわかりません。他府県の状況を参考にしたりしながら、小さなことから大きなことを考えようとしています。遺跡は地域の財産です。だからその評価は丁寧にしなければなりません。そしていかに地域の人たちに理解してもらえるか、地域の人に見ていただけるかを考えていくことが必要です。」
心にしみる言葉で会を締められました。