10月10日に開幕しました特別展「兵庫ゆかりの武将たち-明智光秀とその時代-」の関連イベントで、講演会が開催されました。
演題が「信長と光秀」、まさに今、歴史好きの方たちの興味をそそるテーマです。
会場は満員、新型コロナウイルス感染防止対策で、定員いっぱいお入りいただけなかったのが残念です。
講師を務めてくださるのは、滋賀県立安土城考古博物館の髙木学芸員です。信長のお膝元からのご講演とあって、どんなお話が聴けるのか楽しみです。
最初に、来館の方へ質問されました。織田信長とはどんな人だと思いますか? と。
その答えを聞いた後に映し出されたのが上の人物像です。ほぼ同様のお答えでした。
この人物像は現在の研究では、ほぼ否定されているようです。誤解だらけだそうです。今放送されている大河ドラマの信長は、従来とちょっとイメージが違うと言われているようですが、髙木学芸員は、わりと史実に近いイメージで演じられていると言われてました。
光秀が歴史の舞台に姿を現すのが、永禄11年(1568年 年齢41~53歳)に信長が足利義昭を伴って上洛をしたころからで、足利義昭、信長を通して、幕政の中枢の人物として名が出るようになったとのこと。そこから数年で信長の伊勢攻めをきっかけに、義昭と信長の関係が悪くなり、元号が元亀(1570年)になったころに争乱が起こり、義昭と信長の両方に仕えていた光秀が、信長の家臣に専念することになったようです。
天正3年(1575年)、光秀は信長から丹波攻略を任され、ほぼ4年かけて丹波を平定。一方信長は天正4年に安土城の築城を始め、天下人へ向かって、毛利、上杉、武田などの遠国の大名たちと戦いを繰り広げていたようです。
この後、信長はなおも戦いながら勢力を伸ばしていく中で、実力主義によって若い武将を登用したことによる一体感の欠如や、多くの兄弟や家臣の討死による慢性的な人手不足などで、だんだんと信長軍団にほころびが見え始めていくようになり、光秀も家臣の中での立ち位置が微妙になっていったそうです。
信長と光秀の関係で一番の出来事は、本能寺の変(天正10年・1582年)であり、これにより二人はほぼ同時に歴史から姿を消すことになりますが、なぜ、光秀が信長を討ったのか、(裏切ったのか)、諸説ある中で、これはいろいろと研究が進んだ今でも解き明かすことのできない謎だそうです。
かけ足の報告となってしまいましたが、最後まで興味つきることのないお話を聞かせていただき、あっという間の1時間30分でした。