兵庫考古学研究最前線2021のシリーズ「古墳時代の兵庫」の最終回となる第5回目は、「赤穂の終末期古墳-祇園塚型石室-」と題して、10月2日に開催されました。
緊急事態宣言は解除されましたが、感染症対策をとって、定員60名で行われました。
講師は、赤穂市教育委員会文化財課の山中良平学芸員です。
本日の内容は、旧赤穂郡(赤穂市、相生市、上郡町)で6世紀(古墳時代後期末)から7世紀(古墳時代終末期)にかけての特殊な横穴式石室について解説していただきました。
古墳時代終末期とは、前方後円墳がつくられなくなった時期のことで、この時期に小さな横穴式石室の古墳が、数多くつくられたとのことです。
ちなみに、飛鳥時代と古墳時代終末期とは年代が重なりますが、考古学ではこの時期のことを飛鳥時代とは言わず、古墳時代終末期と呼ぶことが多いそうです。
今回のテーマの祇園塚型石室とは、横穴式石室の中ほどに間仕切りがあり、前室と後室が分かれた形をしています。
一般的な横穴式石室は、一番奥に玄室という遺骸を埋葬している場所があり、その玄室の入口部分を玄門と言いますが、有年地区の北にある塚山古墳群には、玄門部に間仕切りを持つ祇園塚型石室が確認されています。上の石室の写真を見ると、内側に張り出した「間仕切り」というのがよくわかります。この祇園塚型石室は兵庫県下では赤穂周辺でしか発見されていないそうです。
600年前後(6~7世紀)には全国的に小さな古墳が群れるように特定の場所に築かれるようになります。これらを「群集墳」といいますが、赤穂市でもこの時期に集中して多くの群集墳がつくられました。
その中で、旧赤穂郡を中心に「類横口式石槨」と言われる、玄室に当たる部分が異常に狭いものが発見されています。
祇園塚型石室や、一般的な畿内型横穴式石室とは異なる埋葬方法を行っていたとも考えられることから、特殊な集団の墓ではないかとも考えられているそうです。