春季特別展「弥生集落転生」の会期が無事に終わりました。沢山の方にご来場いただきありがとうございました。
今回は会期中に行われた、和田館長による講演会、兵庫考古学研究最前線2022『弥生時代の兵庫』①「弥生時代について」のレポートをお届けします。
「兵庫考古学研究最前線」は、兵庫県内で注目の発掘調査や最新の研究成果などをお届けしようという連続講演会です。昨年度からテーマを決めてのリレー形式で講演を行っており、今年度は“弥生時代の兵庫”というテーマで、4回にわたって4人の講師が講演します。
初回は館長による「弥生時代ってどんな時代?」という概略的なお話と、兵庫県の弥生文化の魅力などについてご紹介いただきました。
弥生時代は農業を中心とした時代で、ヤマト王権の成立をもって終了というのが一般的ですが、弥生時代の研究が進み始めたのは、比較的近代になってからで、明治・大正時代には「弥生時代」という時代は広く認識されていませんでした。遺跡といえば、東日本の人は貝塚、西日本の人は古墳、といった様子であったようです。
大正~昭和初期になって、縄文式土器文化と古墳文化の間の文化、との認識が進み、弥生式土器と文化の発見に至りました。
以降、昭和12年(1937年)の奈良県唐古遺跡(唐古・鍵遺跡)から多量の土器、木製農具が見つかり、昭和22年(1947年)には静岡県登呂遺跡から竪穴・高床建物、農具、水田等が、そして、昭和37年(1962年)には大中遺跡からたくさんの竪穴住居跡が発見され、世間を驚かせました。
弥生文化の特徴を理解するために、考古イラストレーターの早川和子さんによる弥生時代のムラの復元画を見ながら、水稲農耕が盛んになり、採集経済から生産経済に変わる様子について詳しく解説しました。復元図を描くと理解が深まるので、自分で描いてみてくださいとの薦めもありました。
木器・石器→金属器の普及や、金属器(銅・鉄)の使い分けについてもお話しがありました。(これについては次回の講座で詳しく解説があるだろう、とのことでした)
それから、弥生文化の分岐点として「聞く銅鐸」と「見る銅鐸」の時代の境目に注目。
弥生文化は平たくいえば、水稲農耕が盛んになる→人々が定住しムラが生まれる→貧富の差が生まれる(首長の出現)→本格的な戦争のはじまり→クニ・政治が生まれる(弥生時代の終焉)、という流れで、先ほどの銅鐸の境目、つまり弥生時代中期後葉から後期に向かう時代は、あらゆるものの変わり目で、ここを境に時代は大きく変わっていったのだそうです。
その具体例として、
- 銅鐸が農耕タイプ(音を鳴らして皆を鼓舞するもの)から政治的なタイプ(象徴的なもの)へ変化するころ
- 道具として使っていた鉄が、武器として普及していくころ
- 社会的に階層性・複雑化が進み、ランクの高い者=首長の墓(方形周溝墓)が出てくるころ
- 他地域との豊かな交流が始まるころ
つまり、弥生時代中期中葉くらいまでは弥生時代らしい牧歌的な時代で、そのあとは古墳時代のにおい=政治的な香りがする時代なのですが、当館の所在する大中遺跡は、そんな弥生時代の終わりに最盛期を迎えた遺跡であった、とのことでした。
講演の最後には「当館のある兵庫県の東播磨地域は弥生時代の遺跡の出土例が豊富で素晴らしい地域。ただ、個人的には、弥生時代の終わりから古墳時代前期の遺跡の出土例がないのが残念。
当時は、東からはヤマト王権、西からは吉備の影響が入り、めまぐるしく社会環境が移り変わる頃で文化の定着が難しかったのかもしれない。日岡山古墳群などが出現するまでの古墳時代の遺跡、特に前期のものがみつかってほしい」と和田館長らしいユーモアをのぞかせました。