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#自宅でも考古博 31 「発掘こぼれ話5・京都市中臣遺跡の発掘」

 1971 年。 5 回生の時、北山修さんが考古学研究室にやってきた。京都府立洛東高校の生徒だった岡本英和・洋兄弟が、京都市山科区の住宅地の一角で弥生土器を発見したが、ほっておくと遺跡が壊されてしまうので何とかしてくれという話だった。  そこで、急遽、大学院生の山本忠尚さん(天理大学)を中心に発掘をすることになった。調査主任は田辺昭三さん(京都市埋蔵文化財研究所)。北山さん、川西宏幸さん(筑波大学)、和田等が参加した。  三叉路の道に面した三角形状の狭い土地だったが、弥生時代中期前葉( 2 様式)の方形周溝墓と古墳時代末期の石槨化した小型の横穴式石室が発見された。  方形周溝内からは保存状態のいい土器がいくつか出土したが、いずれも近江系の土器で、この資料をもとに近江の第 2 様式土器を新古に区分できる可能性があるということだった。  その年の秋、今度はこの住宅地の下にある水田が広い範囲で区画整理されるというので、道路部分を発掘する話が持ちあがってきた。田辺さんが調査主任、京都大学大学院生の桃野真晃さんが現場監督。平安京調査会のメンバー(後、京都市埋蔵文化財研究所)、丹羽佑一(香川大学)、和田等が参加した。  弥生時代終末期~古墳時代前期と古墳時代後期後葉~飛鳥時代前葉の 2 時期の竪穴建物が多数検出された。前者は円形と方形の竪穴建物を中心とした拠点集落、後者は方形の竪穴建物を中心とする一般集落かと思われる。 この時、自分たちのチームで竪穴建物を 5 、 6 基掘りきったことが大変良い勉強になったし、自信にもなった。 この発掘で印象に残ったのは、一つは弥生終末~古墳初頭の土器で、この時、出土したもののほとんどが、「受口状口縁甕」を中心とする近江型の土器だったことである。畿内系の「くの字状口縁タタキ甕」は 2 片ほどしか出なかった。京都とは言っても、山科盆地は近江の勢力圏なんだと強く感じた(後の調査では後者が増えている)。      近江型(左)と畿内系(右)の土器  ( 京都市文化観光局・京都市埋蔵文化財研究所 1986 『中臣遺跡発掘調査概報』より転載)   もう一つは、弥生の竪穴建物の中央部はすぐには埋もれず、古墳時代の終わり頃になっても窪んでいて、須恵器が数多く捨て...

#自宅でも考古博 30「副葬品を入れるとしたら?」

 テーマ展示室の「交流」のコーナーに入ると、目の前に大きな石棺が現れます。  古代船(準構造船)とともに、圧倒的な存在感を発揮していますね。  この展示品も古墳時代と同じように、高砂市から加古川市にかけて産出する「竜山石(たつやまいし)」を使って復元しています。しかも、どうせなら竜山石製石棺のうちで最大、しかも現在は陵墓参考地として目にすることができない見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳ともいいます。奈良県橿原市)の家形石棺を原寸大で復元し、修羅という木ソリで運ばれていく様子を再現しています。 家形石棺 竜山石で復元(当館テーマ展示室)  さて、古墳時代の有力者が亡くなると、なきがらと一緒にお墓に入れられる貴重品がありますよね?  そう、副葬品です。  遺跡の発掘調査に憧れ、考古学を志す者が圧倒的に夢見るのが古墳の発掘。そして一体どんな副葬品が眠っているのか、想像するだけでワクワクしてきませんか。  私も中学時代に、藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の未盗掘の石棺が発掘されるという報道に接しました。ファイバースコープを入れて石棺内部の様子を探るというニュースを、テレビにかじりついて固唾を飲んで見守った思い出があります。 藤ノ木古墳の記者発表を行う 石野名誉館長 (当時奈良県立橿原考古学研究所副所長) 朝日新聞社『アサヒグラフ 藤ノ木古墳大特集』(1988)より  ところで、古墳にはどのような副葬品が、どのような場所に納められていたのでしょうか?  大きな古墳は過去に盗掘されていることが多く、なかなか埋葬当初の様子をうかがい知ることができる機会は多くありません。長年発掘調査に携わっている調査員でも、埋葬当初のままの石室を掘り進み、手つかずの棺の蓋をあける幸運な経験に恵まれるのはほんの一握りの人でしょう。  私もまだ蓋を開けたことはありません。  では、古墳の埋葬施設に副葬品の置かれた様子を見てみましょう。  イラストは古墳時代の前期(3世紀後半から4世紀頃)の埋葬施設を佐賀市金立銚子塚(きんりゅうちょうしづか)古墳の発掘調査成果をもとに描いた想像図です。 前期古墳の副葬状況想像図 (佐賀県立博物館『日本の古墳』1998より)  有力者のなきがらの右脇には、大刀が先を足元に向けて置かれ...

#自宅でも考古博 29「発掘こぼれ話その4-電話に出た古墳時代の「ひとみさん」-」

当館のテーマ展示「人」のコーナーには、ある一人の女性が開館当初からずっといらっしゃいます。 その方のお名前は「ひとみさん」。 本名はわかりませんが、私たちが勝手にそう呼んでいます。 ひとみさんは今から約1,700年前の古墳時代前期に、朝来市和田山町でご活躍されていました。もちろん今はお亡くなりになり、骨になってしまっています。 ひとみさんの展示 「ひとみさん」とお呼びするようになったきっかけは、今から約30年前、ひとみさんのお墓である向山2号墳(朝来市)を発掘していた時のことです。 兵庫県に就職が決まってまもない頃の私は、初々しく、はしゃぐように発掘をしていました。 調査が進むと、古墳は一辺10mほどの方形であることが明らかになり、その中央からは大きな墓穴がみつかりました。墓穴を掘り進むと丁寧に組んだ石の蓋が出てきました。 丁寧に組まれた蓋石 図と写真による記録をとり、慎重に蓋を外しながら中をのぞくと、、、、 中には人骨が残っていて、目と目が合い(目はないけどそんな気がした)、ドキッとしたことを今でも憶えています。 ひとみさんの埋葬の様子 ひとみさんのお墓はベンガラで真っ赤に塗られた竪穴式石室で、意図的に割られた中国製の内行花紋鏡が枕元に、2本のヤリガンナ(木を削るカンナの一種)が肩の辺りに置かれていました。 石室の外には2つの土器が供えられ、玉砂利が石室周辺と棺内に敷かれていました。 手厚く葬られていて、地域の人々から信任され、愛されていたことがわかります。 赤く塗られた石室と 供えられた土器 意図的に割られた 中国製の鏡 (小型の内行花紋鏡) 発掘調査で人骨が出土すると、形質人類学がご専門の大学教授に現場を見ていただき、年齢、性別、身長、その他の身体的特徴を教えていただいています。   ひとみさんの調査の時も先生に連絡をとり、現場まで見に来ていただきました。 すると、 「この方はきゃしゃで、美人さんですね。例えるなら、黒木瞳さんのような方です。」 とのお言葉。 この時から、私たちはこの方のことを「ひとみさん」と呼ぶようになりました。 先生のお話によると、ひとみさんは ①40~60歳の熟年女性 ②身長は約150センチ ③虫歯があり、生前に上の左右...

かわいいメッセージに心がほんのり・・・

6月26日の夕方、発掘ひろばの黒板に子どもたちのメッセージが書かれてますよと連絡がありましたので、さっそく見に行きました。   発掘ひろばの入口の左側に、自由に書き込める黒板があり、下の方に確かに何か書かれています。 何ということでしょう! 地元蓮池小学校の6年生から感謝の言葉が・・・。 子どもたちのかわいいメッセージに、職員一同、心がほんのり温かくなりました。  今博物館では、夏休みに向けて密集・密接にならずに楽しんでいただける体験を考えています。博物館も頑張ってますよ。  また遊びに来てくださいね。ありがとう!

#自宅でも考古博 28 「発掘こぼれ話その3-長野県大室古墳群の発掘ー」

  1969 年の冬、長野市にある積石塚で有名な大室(おおむろ)古墳群(約 500 基)の発掘に行った。積石塚というのは墳丘を石を積んで造った古墳のことで、その頃、高句麗などに多いことや、香川県の古い古墳にあることなどが話題になっていた。大学院生だった中村徹也さん(山口県教育委員会、写真の後)がその研究をしていて、今度、大室で積石塚を発掘するというので誘ってくださったのだ。  学部生の川西宏幸さん(筑波大学、前列左側)と篠原徹さん(国立歴史民俗博物館、前列右側)と私の 3 人がついていった。東京からは駒沢大学の倉田芳郎先生や東京大学大学院生の飯島武次さん(駒沢大学)等が来ていた。 発掘調査の参加者たち   われわれには 425 号墳があてがわれた。 宿舎は松代の国民宿舎で温泉も湧いて言うことなし。しかし、長野の冬は寒かった。 拳大か、それよりやや大きめの川原石を積んだ墳丘の実測は、川西、和田で担当したが、手がかじかんで長くはもたない。 30 分ほど描いては 30 分ほど焚き火にあたって体を温めた。 425号墳の測量図 ( 神村 透編 1970 『大室古墳群北谷支群緊急発掘調査報告書』長野県、大室古墳群調査会より転載)  ただ、休憩時間にはとびっきりのおやつが出た。長野名物のリンゴ。市場に出せないものらしいが、新鮮で甘くてみずみずしい国光だった。もう一つはこれも長野名物の野沢菜。お茶受けに大皿に山盛り。以後、その時の味を求めてリンゴや野沢菜を買うが、いつもがっかり。思い出の味に優るものはない。  この時初めて長野県考古学学会会長の藤森栄一さんや桐原健さん、神村透さんを見た。 (館長 和田晴吾)

#自宅でも考古博 27 「古代のインデックス」

 考古学では、出土遺物のうち、木に文字を書いたものを木簡と呼んでいます。紙やデジタルデータに囲まれている私たちにはピンとこないところがあるのですが、古代の人たちにとって、木簡は、材料が入手しやすい、表面を削ることで再利用ができるという利点があり、行政文書・荷札等、様々な用途に使われていました。また、文書用の木簡が不要になると、加工して別の用途に再利用することもありました。  用途・形態とも多岐にわたる木簡ですが、この焼き鳥の串みたいなものは何だと思いますか?古代但馬国気多郡に位置する深田遺跡(豊岡市)から出土したもので、平たい頭部に細長い軸が付いており、頭部の両面には文字が記されています。 深田遺跡の題籖軸  これは題籖軸(だいせんじく)という木簡。使い方は、軸の部分に紙の文書を巻き付けて保管するためのものです。紙の文書は書かれた面を内側にして巻き付けられますから、そのままでは中身が判りません。文書を開かなくてもすむように、頭部に文書の内容をメモするのです。今の付箋やインデックスと同じで、書類整理の基本は千数百年前からあまり変わっていないようです。  では、これらの軸に巻いてあったものはどのような文書だったのでしょう。もう一度、頭部をよく見てみましょう。若干の違いがあるのですが、表に文書の内容、裏面に年号を書いています。  一番右側のものを例にとると、「造寺米残」、「弘仁三年」(812年)とあります。造寺米とは寺の造営に支出したコメの事で、弘仁三年の残量を記した文書ということになります。寺の名前は書いてありませんが、おそらく但馬国分寺か国分尼寺の造営に使われたものでしょう。  他の題籖軸にも「官稲」・「田租」・「租未進」、「大同五年」(810年)・「弘仁四年」(813年)と見え、どうも9世紀初め(平安時代)の税金に関わる文書類を整理したもののようです。  深田遺跡からはこれ以外にも土地や稲に関わる木簡類や墨書土器が出土し、その中には他郡の名称を記すものがあることから、但馬国全体の文書行政をつかさどる役所-但馬国府-の有力な比定地となっています。   ※なお、今回紹介した題籖軸は常設展では展示しておりません。 (埋蔵文化財課  鐵  英 記)

田植えを行いました

前日の雨があがり、曇り空の田植え日和。 博物館に隣接する田んぼで恒例の「田植え」を行いました。 昨年は地元の蓮池小学校のみなさんに植え付けてもらいましたが、 新型コロナウイルス感染防止のため、 今年は子どもたちの参加はありません。 当館職員とボランティアグループ「考古楽倶楽部」のメンバー、 そして蓮池小学校の 先生方にご参加いただき植えていきます。 植える苗は、対馬赤米、壱岐黒米、 ヒノヒカリ、ハリマモチ、種子島赤米の5種類です。 2班に分かれて植え付けと苗渡しを交代で行いながら手植えします。 一人4ケ所から5ケ所に植え付けますが、 なるべく足は動かさずに上半身を左右に動かすのが早く植えるコツです。 足跡をならして植える場所をフラットにしながら後ろ向きに進みます。 苗渡しはタイミングが重要。 息のあったチームプレーでテンポよく作業が進みます。 途中雨がぽつりぽつりと降ってきましたが、 奈良からかけつけた和田晴吾館長のおかげ?か、終盤には晴れ間も見え、 なんとか植え終わりました。 例年子どもたちなら2時間以上かかるのですが、 大人がやると約1時間で終了しました。 しかし、にぎやかな声が聞こえない田植えは寂しいものでした。 収穫は10月中旬ごろ。 稲刈りには子どもたちが参加できることを祈りつつ、 これから4ケ月あまり、成長を見守ります。

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