6月4日、大中遺跡発見60周年記念春季特別展の記念シンポジウム「大中遺跡とその時代-東播磨沿岸部の弥生集落-」が開催されました。 今回のシンポジウムは、東播磨沿岸部に点在する弥生時代後期の集落と大中遺跡を比較することで、大中遺跡がどのような環境に置かれていた集落だったかを探るというのがテーマです。 会場は満員の盛況でした。今回は定員72名に対して179名の応募をいただきました。 事前報告は、特別展の主担当、藤原怜史学芸員が「大中遺跡の集落像」と題して発表しました。 大中遺跡の発見から国史跡に指定されるまでの経緯に始まり、竪穴住居跡の時期による特徴の変遷、出土品の特徴、弥生時代の鏡や鉄器の事情、竪穴住居跡に残っていたベンガラ等について報告がありました。また、海が生活圏にある集落であることや竪穴住居跡の分布や特徴的な遺物などから、大中遺跡における集落内でのグルーピングの試案などの解説がありました。 続いて報告1として、「明石川流域の弥生集落」と題して、神戸市文化スポーツ局の池田毅氏から発表がありました。 最初に明石川流域の集落遺跡の動向として、弥生時代中期から古墳時代初頭と経過していく中で、集落の形成された位置や規模の変化について説明していただきました。 次に明石川流域の集落の特色として、小形仿製鏡・破鏡、鉄製品、外来系の土器の出土状況と、大中遺跡同様、竪穴建物が円形主流から方形主流へ変化したことや、北部九州に見られる室岡型住居が確認されていることなどを解説してくださいました。 続いて報告2では、「加古川流域の弥生集落-下流域左岸を中心として-」と題して、加古川市教育委員会の山中リュウ氏から発表がありました。 最初に、大中遺跡前夜(弥生時代中期後半)、大中遺跡併行期、大中遺跡以後(古墳時代初頭)とそれぞれの時代の加古川下流域3大遺跡(溝之口遺跡、美乃利遺跡、坂元遺跡)を中心に、集落の規模や位置、出土品等について説明していただきました。 また、加古川中流域から見た大中遺跡は、溝之口遺跡や坂元遺跡を引き継いだのが大中遺跡なのか、大中遺跡隆盛期には加古川下流域の集落は大中遺跡の衛星的なムラとして機能していたのか、大中遺跡後に成立した古墳の母体集落はどこなのか等について解説してくださいました。 休憩後の記念講演では、橿原考古学研究所共同研究員の森岡秀人氏から 「弥生時代後期から
ただいま開催中の大中遺跡発見60周年記念春季特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」、もうご覧いただきましたでしょうか。 今回の特別展は、大中遺跡発見60周年ということで、当館だけではなく、東播磨の3館で同時に大中遺跡に関する展示を行っており、メインホールと特別展会場に、ポスターを貼ってご紹介しています。当館と併せてご覧いただきたく、少し詳しくご案内します。 3館開催の案内ポスター 播磨町郷土資料館(当館のお隣、大中遺跡公園の西側です) 企画展「大中遺跡のはじまり-氷河期を生きた旧石器人-」(7月3日まで) 大中遺跡(播磨町)や山之上遺跡(加古川市)で出土した旧石器時代から縄文時代にかけてつくられた石器が中心の展示です。 瀬戸内沖の海底から引き揚げられたナウマンゾウの牙の化石や、サヌカイトでつくられたナイフ形石器、矢じり、有舌尖頭器など1~3万年前頃の小さな石器が数多く展示されています。 常設展示では、新聞の父と呼ばれるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)や新井用水を開削した今里傳兵衛などの郷土ゆかりの偉人や別府鉄道の資料が展示されています。 兵庫県立図書館(明石市 明石公園内) 「大中遺跡発見60周年-ひょうごの弥生時代-」(7月20日まで) 2階の「ふるさとひょうご情報室」内に大中遺跡のコーナーが設けられています。 大中遺跡や兵庫の弥生時代に関する本のほか、弥生時代の遺跡・出土品について書かれた本など、約70冊が配架されています。考古博物館にない本もあるようです。 大中遺跡発見当時のことが詳しく紹介された冊子も展示されていました。発見した中学生3人の発見ドラマが掲載されています。 兵庫県立考古博物館 大中遺跡発見60周年記念特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」(7月3日まで) 当館の特別展も残すところ半月となりました。大中遺跡のことがよくわかる展示です。まだお越しでない方はお急ぎください。 大中遺跡の竪穴住居はバリエーション豊かです。これまでの調査で、住居の形や屋内の構造によって建てられた時期が分かるようになりました。 大中遺跡以前(前期~中期)の弥生集落(玉津田中遺跡・神戸市西区)で出土した石斧や鋤などの木製農具。本展覧会の出発点です。 中央の赤い台は今回の展覧会の目玉の一つ、舶載内行花文鏡の破片(破鏡)です。(播磨町郷土資料館蔵 後漢〔25~220年〕の