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7月 12, 2020の投稿を表示しています

#自宅でも考古博 31 「発掘こぼれ話5・京都市中臣遺跡の発掘」

 1971 年。 5 回生の時、北山修さんが考古学研究室にやってきた。京都府立洛東高校の生徒だった岡本英和・洋兄弟が、京都市山科区の住宅地の一角で弥生土器を発見したが、ほっておくと遺跡が壊されてしまうので何とかしてくれという話だった。  そこで、急遽、大学院生の山本忠尚さん(天理大学)を中心に発掘をすることになった。調査主任は田辺昭三さん(京都市埋蔵文化財研究所)。北山さん、川西宏幸さん(筑波大学)、和田等が参加した。  三叉路の道に面した三角形状の狭い土地だったが、弥生時代中期前葉( 2 様式)の方形周溝墓と古墳時代末期の石槨化した小型の横穴式石室が発見された。  方形周溝内からは保存状態のいい土器がいくつか出土したが、いずれも近江系の土器で、この資料をもとに近江の第 2 様式土器を新古に区分できる可能性があるということだった。  その年の秋、今度はこの住宅地の下にある水田が広い範囲で区画整理されるというので、道路部分を発掘する話が持ちあがってきた。田辺さんが調査主任、京都大学大学院生の桃野真晃さんが現場監督。平安京調査会のメンバー(後、京都市埋蔵文化財研究所)、丹羽佑一(香川大学)、和田等が参加した。  弥生時代終末期~古墳時代前期と古墳時代後期後葉~飛鳥時代前葉の 2 時期の竪穴建物が多数検出された。前者は円形と方形の竪穴建物を中心とした拠点集落、後者は方形の竪穴建物を中心とする一般集落かと思われる。 この時、自分たちのチームで竪穴建物を 5 、 6 基掘りきったことが大変良い勉強になったし、自信にもなった。 この発掘で印象に残ったのは、一つは弥生終末~古墳初頭の土器で、この時、出土したもののほとんどが、「受口状口縁甕」を中心とする近江型の土器だったことである。畿内系の「くの字状口縁タタキ甕」は 2 片ほどしか出なかった。京都とは言っても、山科盆地は近江の勢力圏なんだと強く感じた(後の調査では後者が増えている)。      近江型(左)と畿内系(右)の土器  ( 京都市文化観光局・京都市埋蔵文化財研究所 1986 『中臣遺跡発掘調査概報』より転載)   もう一つは、弥生の竪穴建物の中央部はすぐには埋もれず、古墳時代の終わり頃になっても窪んでいて、須恵器が数多く捨てられてい

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