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11月 9, 2025の投稿を表示しています

今里幾次さんって?

    今季の秋季特別展で取り上げている「播磨の考古学-今里幾次の弥生と瓦と駅家研究-」に登場する「今里幾次」さんとはどのような人だったのでしょうか?   チラシの説明文を読んでみると「銀行員としての職業をもちながら生涯にわたり考古学の研究を進めた」とあります。大学教授などの専門家ではなく、普通の民間会社員が兵庫県の考古学研究の黎明期を牽引した、ということのようです。 氏の研究活動の特徴は、綿密かつていねいに整理された調査記録、克明な資料の観察という地道で息の長い調査の裏付けの上に基づいた 考察である、と言えるでしょう。 一方、銀行員としても地位のある役員にまで上り詰めています。   これは今でいうところの大谷翔平、二刀流の達人だった、といえるのではないでしょうか? すごい人ですね。   そこで、ご本人が残された『播磨古瓦の研究』の中にある資料を参考に、今里幾次という人物に触れてみたいと思います。   今里氏と考古学との出合いは昭和 11 年 (1936) の秋と記されています。 氏は大正 8 年 (1919) 生まれですので、当時の年齢は 17 歳。その年の春に兵庫県立姫路商業高校を卒業し、 4 月から五十六銀行(のちの神戸銀行)姫路支店で勤務を始められました。   子供のころ、家では予習・復習をはじめ試験勉強をするような人ではなかったということですが、勉強自体は好きで成績も悪くはなかったそうです。 ただ、家の経済事情や長男であるということから、進学をあきらめて銀行へ就職をされました。   本人としては、小学生のころから鉱物や地質が好きで、将来は秋田鉱専という当時では国内唯一の専門学校に行き、将来は鉱山技師になるという夢を抱いていたそうです。 地理・歴史は嫌いではなかったのですが、神話から始まる古代史には大きな不満を持っていました。そんなとき、古代人の残した遺跡・遺物を研究する「考古学」という学問があることを知り、新たなジャンルとして興味を持たれました。 どうやら、このあたりが考古学者としての始まりだったようです。   氏の持っていた初期のスクラップブックを開いてみると、冒頭には昭和 8 年 (19...

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