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2月 10, 2013の投稿を表示しています

土器を新調 日々精進の手仕事がつくりだしました

考古博物館の東入口のところに、土器を並べています。 このたび、考古博物館ボランティアの 「土器づくりグループ」のみなさんに、新しくつくっていただきました。 大中遺跡から出土した甕と壺の 実測図に基づく忠実な再現、いわゆる実測土器づくりで生み出されています 。 ただ、乾かして焼く過程で、1割ほど小さくなるそうです。 今日も土器づくりが続いています。 粘土を紐状にして巻き上げ、積み重ねていきます。 池ノ下遺跡(姫路市)出土の高坏(たかつき)です。 内部も念入りに仕上げて、 模様の入った土器も、丹念に再現していきます。 考古博物館が行う 土器づくり講座 は、ボランティアの皆さんによって支えられています。 日々精進 こうして、講座のための技術向上が図られています。

2月23日(土)講演「邪馬台国時代の集落-長越遺跡の調査から-」

次回の考古学研究最前線の講演では、邪馬台国、卑弥呼の時代、 どんな住居に住んでいて、どんな暮らしぶりであったのかが語られます。 講師は、 兵庫県を代表する弥生時代から古墳時代初頭の集落跡 である姫路市飯田の長越遺跡に40年近く前から関わる、 兵庫県まちづくり 技術センター埋蔵文化財調査部 渡辺昇副課長 です。 火事はいつの世にも最も恐れられるものの一つです。 邪馬台国時代にも火事はありました。 長越遺跡での住居焼失による 最新の研究成果が発表されます。 あわせて、播磨の庄内式土器の広がりについても述べられます。 「兵庫考古学研究最前線  2012 」   講演「邪馬台国時代の集落-長越遺跡の調査から- 」        平成25 年2 月23 日(土) 13:30 ~ 15:00        当館講堂にて 当日 (13:00より) 受付、定員120名、入場無料 渡辺さんによる 「ひょうご の遺跡」 長越遺跡、焼失住居特集号は ここ をクリックしてください。 博物館ブログの企画展にかかる長越遺跡は ここ をクリックしてください。

曽我井・沢田遺跡 企画展 ひょうごの遺跡 Vol.5から

今回は、兵庫県多可郡多可町曽我井地区にある奈良時代、平安時代、中世の集落遺跡である曽我井・沢田遺跡をご紹介します。 曽我井地区には、瀬戸内側の明石市を起点として、兵庫県北部但馬地域の朝来市を結ぶ幹線道路である国道427号線が走っています。 今回の発掘調査は、この国道427号線バイパス工事に伴い行われました。 曽我井地区遠景(東から) 多可町は妙見山(標高692.6m)を最高に、標高100~400m級の山地に囲まれた谷盆地を形成しています。 中央を加古川に至る杉原川が南流し、その周囲に氾濫原、河岸段丘、扇状地などの地形が発達しています。 遺跡は杉原川右岸(西側)に発達した河岸段丘・扇状地の上にあります。 曽我井・沢田遺跡 12棟の掘立柱建物が発見され、8世紀から13世紀にかけて継続した古代の集落の姿が明らかになりました。 人形(ひとがた)や 斎串( 斎(い)み清められた神聖な串) などの木製祭祀具(もくせいさいしぐ)とまじない が描かれている呪符木簡(じゅふもっかん)、「宗我(そが)」、「宗我西(そがにし)」といった地名・姓名に関する墨書土器(ぼくしょどき)や建物を表す「西殿」の墨書土器が出土し、大型の掘立柱建物が発見されています。 「宗我」、「宗我西」と記されている墨書土器については、「宗我」は「そが」と読めることから、現在の地名「曽我井」、近世初期の「播磨国絵図記載の下そがい村」の名のルーツが8世紀に遡ることが判明しました。 また、正倉院文書には奈良時代の播磨国多可郡奈何郷に宗我部(そがべ)を名乗る人々が住んでいたことが記されています。 出土土器 出土人形・木簡 人形出土状況 墨書土器 発掘した調査員によれば、 調査区域は旧の谷の湿地状ののところであり、 最初に調査区の北西部分から発掘した。 そこで人形(ひとがた)を発掘。 人形がでれば墨書土器も現れる確率が高いので、期待して調査していたがなかなか現れず、 だいぶ経ってから墨書土器が見つかった。 村のはずれは外れることが多いのに、ラッキーだった。 しかもその文字が当地の地名を表す「宗我」という文字であったため、そこから猛勉強して報告をまとめた。 ここは曽我井地区の西端であり、

神出遺跡 企画展 ひょうごの遺跡 Vol.5から

神戸市西区神出(かんで)には、平安時代から鎌倉時代にかけて、瓦、須恵器を生産した神出古窯跡群があります。 A地区調査地遠景(南から) 雌岡山(めっこさん)を中心に分布し、数基から10数基が単位となる支群によって構成されています。 また、これら総数100基を超える窯跡以外に、それに伴う集落跡や粘土採掘坑が発見されたことによって、瓦、須恵器生産過程の一端が明らかになっています。 B地区調査区遠景 現在の雌岡山西南麓一帯は、近世以後に開発された新田地帯となっていますが、窯跡とそれに伴う遺構の存在が確認されています。 ちなみに、雌岡山(めっこさん)があれば雄岡山(おっこさん)という山もあります。 C地区全景南から 今回の発掘調査は国道175号神出バイパス建設に伴い、4調査区で行いました。 D地区調査区遠景(西から) 今回の調査では窯そのものの調査は行われていませんが、大型掘立柱建物や炭窯など、須恵器生産に付随する工房関連の遺構が発見されました。 須恵器鉢、甕、瓦などの大量の製品の他に、青磁、白磁の輸入陶磁器や当時の身分の高さを象徴する 檜(ひのき)の 檜扇(ひおうぎ)など有力者の所有物が出土しています。  檜扇は、年輪が平行にあらわれる柾目(まさめ)の檜の薄板を重ね、下端の穴に糸を通して要(かなめ)とし、上端を糸で綴った扇で、準正装である衣冠(いかん)または平服である直衣(のうし)において、笏(しゃく: 男性の官人が束帯を着用した際に威儀を整えるため右手に持った木製の板) にかえて用いるものです。 即ち、皇族や貴族、(受領、国司クラスも?)等、高い身分を象徴するものです。 遺跡からの出土例としては、平城京左京三条の長屋王邸跡(奈良時代)、美作国府跡(奈良時代)、平安京・鳥羽離宮跡(平安時代:12~13世紀)等があります。 檜扇という当時の身分の高さを象徴するとも言えるものが流路から出土したことは、ここに、この様な持ち物を持ち得る階層、入手できる階層の人がいたことになります。 それが、受領や国司、または在庁官人層に代表される在地勢力であるかは定かではありませんが、窯業生産に関わる直接的・間接的、且つ積極的介入を背景とした様々な交流の中でこの地にやって来ることになっ

市之郷遺跡 企画展ひょうごの遺跡Vol.5から

市之郷遺跡は、JR 姫路駅の東側にある、弥生時代から室町時代にかけての遺跡です。 市之郷遺跡全景 南上空から 姫路市は、古代においては山陽道を中心とした交通の要衝として、江戸時代以降は姫路城を中心とした城下町として栄えてきたところです。 市之郷は旧城南村大字市之郷にあたり、姫路城の城下町の南東側周辺部に位置します。 市之郷という地名は、平安時代から鎌倉時代にかけて、当地に「飾磨の市」が立っていたことに由来するものです。 「枕の草子」をはじめとして、多くの和歌にもうたわれ、都にも知れ渡るほど大きな市であったようです。 市之郷遺跡全景 東上空から 調査地遠景 東上空から 市之郷遺跡の調査は、姫路市教育委員会によって第10次まで、兵庫県教育委員会によって第5次まで行われています。 今回の展示については、県営住宅建替工事に伴う県教育委員会の第3次調査分となっています。 当遺跡は市川右岸(西側)に形成された遺跡で、大きく西側の地区と東側の地区に分かれますが、今回は東側(日出町3丁目)の遺跡調査ということになります。 弥生時代後期末から古墳時代初頭の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)などが見つかり、大量の土器が出土しています。 しかし 長越遺跡 のところで紹介した庄内式甕は1点も含まれていません。 讃岐や山陰地域の特徴をもつ壺や甕がみられます。 また、古墳時代初頭の12.6m×4mの掘建柱建物跡が見つかっています。 この時期の大型建物は例が少なく、何か特別な建物だったかもしれません。 調査地全景 東上空から 上の画像左下中央部の住居が使われなくなった跡に、一括して捨てられたと考えられる土器溜も見つかっています。 この土器溜では、壺、甕、鉢、高坏、器台が出土しています。 この夥しい土器片の出土位置、種類等を含む状況も、しっかりと調査しています。 土器溜土器  復元すると、こうなりました。 土器溜出土土器 出土土器(土器溜以外) 古墳時代(須恵器・土師器) 狭い調査区でありながら大量の遺物が出土してきたため、 担当調査員にとっては、 工事日程に追われながらの必死の調査であったようです。

坂元遺跡 企画展 ひょうごの遺跡Vol.5から

坂元遺跡は、加古川左岸(東側)の加古川市野口町坂元の野口段丘にある遺跡です。 坂元遺跡・溝之口遺跡遠景 この遺跡の北西約500mには東播磨を代表する複合遺跡である溝之口遺跡があります。 坂元遺跡も近年の調査によって、旧石器~中世に至る代表的な複合遺跡であることが判明しています。 これら遺跡の立地する段丘上やその周辺では、遺構は伴わないものの旧石器時代の遺物が採集されています。 弥生時代以降になると遺跡数は増加し、加古川左岸(東側)では溝之口遺跡や美乃利遺跡、右岸(西側)では岸遺跡、砂部遺跡など拠点的な集落が弥生時代中期に現れてきます。 坂元遺跡でも中期~後期の集落や四角の浅い溝を巡らし土を盛った方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)などが見つかっています。 古墳時代になると両遺跡の北東方向に位置する日岡丘陵から西条にかけて、前方後円墳を中心に古墳が築かれており、坂元遺跡でも削り取られた古墳が見つかっています。 溝之口遺跡、坂元遺跡ともに古墳時代の集落が認められ、坂元遺跡では6世紀前半の埴輪窯が見つかっています。 古代の遺跡周辺は、播磨国加古郡にあたり『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』の「馬家里(うまやのさと)」、『和名類 聚 抄 (わみょうるいじゅしょう ) 』の「賀古郷(かこごう)」にあたると考えられます。 遺跡南側には古代山陽道が通り、「賀古駅家(かこのうまや)」と考えられる古大内(ふるおうち)遺跡から1kmほど東に位置します。 周辺の遺跡 坂元遺跡はこれまで3ケ年にわたって発掘調査を実施しており、弥生時代の   方形周溝墓群、古墳時代の集落及び埴輪焼成窯、奈良時代の役所跡と思われる建物群、中世集落、水田跡などが見つかっています。 また、国道2号線に面する地区の発掘調査では、奈良時代の農村集落跡、弥生時代から古墳時代の翡翠(ひすい)製勾玉(まがたま)や耳たぶにつける飾りである耳環(じかん)などを含む遺物も出土しています。 坂元遺跡調査区 今回の調査では、竪穴住居2棟、掘立柱建物4棟、古墳4基、木棺墓2基、、土坑墓(土の中に穴を掘っただけで死んだ人を葬った墓)4基が見つかりました。 古墳はいずれも削られ、埋葬施設が残っていたのは3基でしたが、うち2基からは水銀朱が検出され、1基の水銀朱は

生みの苦しみ味わいつつ 来年度がやって来ます

2月も中旬となってきました。 梅に見とれることもなく、各課で来年度に向けて、いろんなものを形に変えようとしています。 まず、 特別展「播磨国風土記 -神・人・山・海-」 です。 『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』 は奈良時代初期、和銅6(西暦713)年5月に、元明天皇の命により編纂された日本最古の地誌です。 現存するのは全国でも5カ国のみとなっています。 今年は風土記編纂1300年の記念の年となることから、4月20日(土)から6月23日(日)の日程で開催します。 展示のための協議・交渉もさることながら、特にこの2月余りは、ポスター、チラシ、入場券等のデザインについて、何もないところから生み出す苦労が重ねられてきました。 デザイン担当職員が展覧会の意図に基づくラフデザインを手がけ、担当職員が文章書き入れ・チェックを行い、最終的に各課の職員が様々な意見を出しながら博物館全体でまとめ上げました。 この後、館長にデザイン意図を説明し、了となり、業者発注の運びとなりました。 ようやく、次の段階に歩を進めることが出来ます。 こんなデザイン どんなデザイン? 一方こちらは、博物館の1年度間のイベントなどのスケジュールをコンパクトにまとめた 「イベントガイド」 です。 本年度分をながめながら、改良すべき点は改良しながら、つくっていくことになります。 ただ、イベントの数が多いため、館内各課間での調整や館外への協力依頼など、まだまだやらなければならないことだらけです。 形あるものにするための苦労が続きます。 これが担当責任者の机です。 単に散らかっているだけでは? 最終的にコンパクトにするため、折り目正しく仕上げます。 ゴメンナサイ 黒く汚く消してしまいました 色も決まっていません。 デザイナーのラフデザイン段階です。 中味を早く固めていかねば。 焦りだけが増していきます。 デザイン一新しています 乞うご期待

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