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4月 19, 2020の投稿を表示しています

#自宅でも考古博 6「海外からやってきました!」

  私たちの身の回りには、海外からやってきたものがたくさんあります。例えば、日本の食料自給率は約40%で、残りの60%は海外からの輸入品だそうです。現在の私たちの生活は、輸入品がないと成り立ちません。  日本はアジアの東端にある島国です。昔から、大陸との交流を背景にさまざまな技術や風習、道具が日本に伝わりました。当館の展示室の中にも海外からやってきたものが展示されています。そのいくつかを見てみましょう。 板状鉄斧(中西山遺跡:三田市)  石と鉄の映像コーナーに目立たなく展示されている鉄の塊。弥生時代の鉄斧です。弥生時代には、まだ日本で鉄を作る技術はありませんでした。そのため、この大きな鉄の塊は素材として朝鮮半島から輸入され、日本でこれを加工して、小さい鉄製品を作っていたと考えられています。 ガラス玉(東梅田墳墓群:朝来市)  弥生時代末のお墓から見つかったこれらのガラス玉は、すべて海外から運ばれたものです。インド・パシフィックビーズとよばれ、インド~東南アジア各地で生産されたガラス玉です。海上交易によって、世界各地に運ばれたと考えられています。日本の弥生時代や古墳時代前半のお墓から見つかるガラス小玉も、ほとんどが同様のビーズだそうです。 椰子の実の笛(玉津田中遺跡:神戸市西区)  弥生人は、黒潮に乗りやってきた椰子の実に 孔をあけて笛をつくりました。この椰子の実も、原産地であるフィリピンやインドネシアあたりから、流れてついたのかもしれません。 「♪名も知らぬ遠き島より…」とはじまる曲「椰子の実」は、柳田國男が流れ着いた椰子の実の話を島崎藤村に語り、それを元に藤村が創作したものです。度々、椰子の実は日本に流れ着いていたようですね。 銅銭とやきもの(南台遺跡:三田市ほか)  意外かもしれませんが、平安時代から中世にかけて日本ではお金は作られず、中国から銭が大量に輸入されていました。当時の人は海外のお金である銅銭を使って売買をしていたのです。中国から輸入されたやきものも、中世の村を発掘するとよく見つかります。お金ややきものといった輸入品が、日常的に使われるようになったようです。  現代だけではなく、昔の人も海外の交易品を使った生活をしていたことが、当館にある展示品からもわかります。早く新型コロナ感染が終息し

#自宅でも考古博 5 「大きな壺と甕」

  かつて山辺の道(奈良県)を行くと、石上神宮(天理市)の正門の内側左手に、完全な形の須恵器の甕(かめ)が置かれていて、あまりの大きさに驚いたことがある。大人でもゆうに入れるぐらい。よくも割れずに残っていたものだ。   しかし、しばらくすると甕は姿を消してしまった。 それ以来、石上神宮というと、この大きな甕と、悠々と庭に遊ぶ尻尾の長い鶏を思いだすようになった。 今回、石上神宮の公式サイトで調べると、甕は社宝「厳甕(いつべ)」として奈良県指定文化財になっていた。知らない間に甕は出世していて、気楽に見たり触ったりできなくなっていたのである 。 サイトの説明はつぎのようだ。 「参道入口の大鳥居の北西にあった酒殿(さかどの)の跡から発見されたという高さ 97.8cm 、 口径 64.4cm 、 胴径 106cm の超大型の 須恵器(すえき)の甕(かめ)で、奈良時代のものとみられます。」   ところが、兵庫県立考古博物館へくると、正面入口の左側に、あの須恵器に劣らないほど大きな壺(つぼ)や甕がズラーと並んでいる。   何だ、何だ? 誰のアイデアだ? 実にすばらしい!   弥生時代の弥生土器の壺から始まって、古墳時代の須恵器の甕、そして江戸時代の陶器の甕まで、合わせて 15 個もの壺や甕が………。  アレー、困ったぞ。いつの間にか「壺」が「甕」に変わってしまった。タヌキじゃあるまいし。   弥生土器の勉強では、容器の種類の基本は、ものを煮炊きする「甕」と、ものを貯蔵する「壺」と、 ものを盛る「高杯(たかつき)」だと習ったし、須恵器の勉強では、須恵器は 加熱に弱く、ものを煮炊きするのに不向きで、おもに食卓にならべる「杯(つき)」 や「壺」のような食器、水や酒を貯蔵する「甕」に使った、と習ったが…。   どうなってるんだ、考古学者。同じ貯蔵用の容器なのに「壺」と「甕」を混乱してるぞ!   「すみません。そのとおりなんです。」 これには訳があって、研究初期の段階にそれぞれの容器の研究を進めた人たちが違う用語を使っていて、それがそのまま今も使われているからなんだ。 研究者のなかには、この混乱を解消するため、時代を超えて同じ用途のものは同じ名前にしょうと頑張っている人たちもいるけれど、な

#自宅でも考古博 4 「カラフルな陶器やタイルの展示!」

 テーマ展示室の遺物展示の最終展示は西洋とつながる建築文化のコーナーで、きれいなタイルを展示しています。  また、地下1階のネットワーク広場奥の収納展示コーナーには、淡路島の珉平焼(みんぺいやき)窯跡から出土した多くの陶器やタイルを展示しています。  今回はその模様替えの様子を紹介します。  テーマ展示室で展示している淡路の珉平焼窯跡から出土した、明治30~40年代頃の湿式タイルです。  多くの陶器やタイルは、地下1階の収納展示コーナーのケースに収めています。  こんな感じで引き出しで見ていただくことができます。  この製品を生産した淡路の「淡陶(株)」は、タイルを大量生産した老舗メーカーです。  カラフルな陶器やモダンなタイルの多くは輸出用です。 * * * * * * *  近代のタイルを生産した窯跡の発掘例はなかったのですが、この窯跡から出土されたタイルの表の文様や、裏側の文様の変化をとらえた「タイル考古学」が発表されました。  建物の建築年代や増改築された年代を知る手掛かりとして、タイル考古学が使われています。 * * * * * * *  明治時代を中心とする「レリーフタイル」と呼ばれる凹凸文様や、大正時代に生まれた「チューブライニングタイル」と呼ばれる、タイルの表面に小さな壁で釉薬の混ざりをなくして色合いをくっきりさせる方法など、並べてみると違いが判ります。  乾式タイルの裏側には、このような小さな格子状の形があります。これは、タイルを焼く時の金型の形で、何種類かあります。  この型は、明治41~45年頃の生産品であることがわかります。  タイルが薄く、硬くなるよう工夫を重ねるうちに、型にもバリエーションが増えます。  この型は、大正時代後半頃のものです。  タイルの下の敷物を綿から朱色と紺色の毛氈に取り替えます。  上段の開き戸の棚には陶器をびっしり並べました。  これで作業完了です。  どことなく上品な感じに変わったように見えませんか。  (3枚目の写真と比べてみてください)  上段には動物を形どった置物や花留などを並べ、下段の引き出しは、明治から昭和のタイル文様の

#自宅でも考古博 3 「縄文人の知恵と現代社会」

 当館のテーマ展示室には約3,500年前の縄文時代の人々の暮らしを復元しています。「森と海に生きるナチュラリスト」であった縄文人はおだやかな自然環境の中で、自然とともに生き、豊かな自然の恵みを得ていました。 テーマ展示室の縄文時代の展示  兵庫県のみならず、北海道から沖縄まで日本全国で9万箇所以上の縄文時代の遺跡が発見、発掘されています。縄文時代は10,000年継続しており、漠然と「停滞した文化」という評価が与えられがちですが、南北に細長い日本列島の多様な風土に適応した狩猟採集文化であり、環境の変化や災害にも柔軟に対応できる技術や社会を持っていました。 縄文土器(淡路市佃遺跡)  平成23年の東日本大震災において津波被害を受けた岩手県、宮城県、福島県では、住宅再建が進んでいますが、同じ場所に建て直すと将来の津波で再び多くの人命が失われる恐れがあるので、これまでの街の裏山など高台を中心に再建されています。   津波の被災地と背後の高台    しかしこの高台移転の候補地には、例外なく縄文時代の遺跡が存在していることがわかってきました。海の恵みを受けていた縄文人は、津波が定期的に来ることを知っていたのです。  東北地方の太平洋沿岸部では、1万年前から受け継がれてきた災害を予防する先祖の知恵を、未来の安心・安全な街づくりにつなげているのです。 考古学情報プラザ ご自身のため、未来のために、過去の人々の生活の積み重ねである歴史を、当館のテーマ展示や考古学情報プラザで深く学んでみませんか。 (学習支援課 山本 誠)

#自宅でも考古博 2 「発掘ひろば竪穴建物の不思議ーどんなふうに使っていたのかな?―」

弥生時代の家はどんなふうに使われていたのか?それがわかるのが火事で焼けてしまった竪穴建物です。 発掘ひろばの竪穴建物    発掘ひろばに展示している大中遺跡の竪穴建物(SH2202)は火事で焼けたものです。テーブルの上に展示しているのが、ここから出土した土器や石器です。土器は液体や穀物をたくわえる壺が10個、ご飯をたく甕が3個、イイダコ壺が16個あります。  発掘ひろばに展示している土器や石器  それぞれの土器が出土した場所を見ると、大きな壺は南側の壁に近いところに固まって置かれ、小さな壺は北側の高床部の内側に固まっています。甕は西側の高床部と中央の炉の近くにあり、イイダコ壺は東側の高床部にちらばっています。  土器が出土した場所(報告書より)  これを見ると、土器の用途によって置く場所が決まっていたようです。イイダコ壺は縄に通して、梁にでも掛けられていたのかもしれません。 発掘調査時の竪穴建物SH2202  ただこの竪穴建物の不思議なところは、ご飯を食べるための鉢や高杯といった土器がほとんど見られないことです。食器がないということは、ここでは食事をしなかったということです。  甕でご飯を炊いてどこか他の場所で食べたのか、火事になった時は物置として使われて、ここでは生活していなかったのか、いろいろな可能性が想像できます。 (企画広報課 多賀茂治)

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