1971年。5回生の時、北山修さんが考古学研究室にやってきた。京都府立洛東高校の生徒だった岡本英和・洋兄弟が、京都市山科区の住宅地の一角で弥生土器を発見したが、ほっておくと遺跡が壊されてしまうので何とかしてくれという話だった。
そこで、急遽、大学院生の山本忠尚さん(天理大学)を中心に発掘をすることになった。調査主任は田辺昭三さん(京都市埋蔵文化財研究所)。北山さん、川西宏幸さん(筑波大学)、和田等が参加した。
三叉路の道に面した三角形状の狭い土地だったが、弥生時代中期前葉(2様式)の方形周溝墓と古墳時代末期の石槨化した小型の横穴式石室が発見された。
方形周溝内からは保存状態のいい土器がいくつか出土したが、いずれも近江系の土器で、この資料をもとに近江の第2様式土器を新古に区分できる可能性があるということだった。
その年の秋、今度はこの住宅地の下にある水田が広い範囲で区画整理されるというので、道路部分を発掘する話が持ちあがってきた。田辺さんが調査主任、京都大学大学院生の桃野真晃さんが現場監督。平安京調査会のメンバー(後、京都市埋蔵文化財研究所)、丹羽佑一(香川大学)、和田等が参加した。
弥生時代終末期~古墳時代前期と古墳時代後期後葉~飛鳥時代前葉の2時期の竪穴建物が多数検出された。前者は円形と方形の竪穴建物を中心とした拠点集落、後者は方形の竪穴建物を中心とする一般集落かと思われる。
この時、自分たちのチームで竪穴建物を5、6基掘りきったことが大変良い勉強になったし、自信にもなった。
この発掘で印象に残ったのは、一つは弥生終末~古墳初頭の土器で、この時、出土したもののほとんどが、「受口状口縁甕」を中心とする近江型の土器だったことである。畿内系の「くの字状口縁タタキ甕」は2片ほどしか出なかった。京都とは言っても、山科盆地は近江の勢力圏なんだと強く感じた(後の調査では後者が増えている)。
近江型(左)と畿内系(右)の土器
もう一つは、弥生の竪穴建物の中央部はすぐには埋もれず、古墳時代の終わり頃になっても窪んでいて、須恵器が数多く捨てられていたことである。
その頃は、北海道などへ行くと、寒冷な気候から土壌の形成が遅れ、竪穴建物などは今でも埋まりきらずに窪んでいるという話を聞かされた。北海道大学の構内にそれを見に行ったこともある。しかし、それは遺跡の保存状態の良し悪しが関係している場合が多く、遺構の上部が削平されず生活面が残っていれば、西日本でも古墳時代の終わりどころか、現在でも窪んでいる。鳥取県米子市にある弥生後期の妻木晩田遺跡にも、そんな例がある。
ついでに、思い出をもう一つ。当時は発掘現場の写真撮影用に1辺約1.8mほどのジュラルミン製の枠を何段も組みあげた「お立ち台」を使っていた。学生たちにとっては1人でいかに早く何段組み立てられるかが自慢のしどころだった。ところが、ある時、5段組のお立ち台が突然ゆっくりと倒れだした。近くにいた私は、助けに行くどころか、ただ呆然と眺めていただけ。体はまるで動かず。いざという時はこんなものなのかと思った。
台の最上段にいた学生はトレンチ横の排土の上に飛びうつって難を逃れた。しかし、最下段にいた監督は足をはさまれ、しばらくは正座できないと嘆いていた。年だなーで済んで良かったが、思えば、あの人はお坊さんの跡を継いだんだっけ。
この現場ではいろいろあったが、それはまたの機会に。
(館長 和田晴吾)