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#自宅でも考古博38 今に続く駅鈴のものがたり

  駅鈴(えきれい)とは 現在、当館では令和5年度秋季特別展「駅家発掘!-播磨から見えた古代日本の交通史-」を開催中です。 展示品の一つに、駅鈴(玉若酢命神社所蔵、国重要文化財)の模造品(姫路文学館より借用)があります。 駅鈴とは、鈴のように音が鳴る通行手形のようなもので、飛鳥~奈良・平安時代に使われました。公的な用務で全国各地に出張する際に携行し、駅鈴を持っていると、専用道路(駅路:えきろ)が使え、一定間隔に設置された駅家(うまや)で馬を乗り換え、休憩、宿泊し、随行者(駅子:えきし)まで付けることが出来ます。 内乱(壬申の乱など)の際、駅鈴は交通権の掌握につながるものとして戦略上重要視されるなど、権力を象徴するものでもありました。朝廷によって厳重に管理されていて、令(法)の規定によると、兵庫県内では、摂津国・播磨国・但馬国・丹波国には 3 口、淡路国には 2 口の駅鈴がそれぞれの国の役所(国府)に備えられていました(養老令諸国給鈴条)。 現在は島根県の隠岐島に鎮座する玉若酢命(たまわかすのみこと)神社が所蔵されている2口のみが知られており、国重要文化財に指定されています。 昭和51年(1976)に発行された20円はがきの切手デザインにこの駅鈴が採用されているので、ご存知の方も多いかと思います。   松阪市の駅鈴 ところが三重県松阪市には、JR松阪駅の駅前に大きな駅鈴のモニュメントが設置され、マンホールのデザインにもなるなど、市を挙げて駅鈴を「推し」ておられます。なぜ、島根県の駅鈴が三重県で推されているのでしょうか。 その理由は、今から 230 年ほど前のことになります。   江戸時代の国学者として知られる本居宣長(もとおりのりなが)は、享保 15 年 (1730) に現在の松阪市に生まれました。彼の学問に憧れた浜田藩(現島根県浜田市)の藩主、松平康定(やすさだ)は伊勢神宮への参拝途中に宣長と対面し、念願の講釈を受けることになります。自らの書斎や屋号を「鈴屋(すずのや)」とするなど、宣長の鈴好きは知られていたことから、康定は隠岐の駅鈴の模造品を鋳造し、宣長への贈り物としたのでした。 本居宣長にとっても、お殿様からいただいた駅鈴の模造品は特別な宝物であり、大切に保管されたため、現在も本居宣長記...

大中遺跡まつり

 11月4日(土) 青空の下、かつ3連休の中日という絶好の条件の中、第31回大中遺跡まつりが開催されました。 今回から飲食ブースも復活し、ステージ・古代体験・PR・飲食・物販とフルサイズでの催しとなりました。 オープニングセレモニーの後、KIRARAによる古代ダンスから幕開けしましたが、大勢の人でなかなかステージまで近づけません。 飲食ブースも大賑わい。29店もの出店があり、キッチンカーにもたくさんの行列が並んでいました。 考古博物館もひょうご考古倶楽部の皆さんと一緒に塩づくりやまが玉の研磨、紙芝居などいろいろな古代体験で参加しました。                  独楽(コマ)廻し道場 こちらは県立兵庫津ミュージアムの「兵庫の生州(いけす)で釣り」魚釣りゲームです。 博物館内でも他府県の博物館や当館の加西分館、まちづくり技術センターなどの出展があり、埴輪ストラップや本のしおりづくりなど、たくさんのご家族が挑戦されていました。                  龍の冠づくり これは、何でしょう? 答えは「靴下パペット(指人形)」だそうです。オリジナル作品を作るとのことでした。 当館への入館者だけでも3,600人を超える盛況ぶりでした。コロナ禍からの脱却を肌で感じられる楽しいイベントになりました。 ※今月の18日(土)・19日(日)は「関西文化の日」として常設展は無料となっています。  ぜひ、この機会も利用してお越しください!  もちろん、この日以外でも大歓迎ですよ。

祝 200万人達成!

令和5年10月29日 ( 日 )  入館者200万人を達成しました! 平成 19 年 10 月の開館から16年、これも、ひとえにご来館いただきました皆様方のおかげと感謝申し上げます。 100万人から200万人までの期間は、コロナによる休館などもあり時間はかかりましたが、ようやくこの日を迎えることができました。 記念のセレモニーをエントランスホールで実施しました。 この度、めでたく200万人目となりました入館者は神戸市から来られたご家族でした。 セレモニーは、ご家族を代表して小学3年生の男の子が銅鐸を鳴らすところから始まりました。 今回はくす玉がわりにデジタルサイネージを活用した式典となっており、カウントダウンに続いて「200万人達成」の画面がファンファーレとともに映し出されました。 当館館長から記念品の贈呈を行いました。 本人のご感想は「びっくりした。まさか、自分が200万人目に選ばれるとは・・」と目を丸くしていました。 話を聞きますと、来館は今春に続いて2回目で、今回は「古代体験の石包丁づくりに参加するため」という目的だったんですが、なんと今、お家でペットボトルを使って米(稲)づくりをしていて、その収穫に石包丁を使うということでした。 なかなか将来有望な少年で、できれば考古博物館も将来の就職先に検討をお願いします。 最後にご家族と館長による記念のポーズをとっていただきました。 ありがとうございました。

青空の下、稲刈り

  絶好の秋晴れの中、蓮池小学校の児童と稲刈りを実施しました。 6月に田植えを行った5年生の皆さんと一緒にいよいよ収穫です。 また、今回はインターンシップとして加古川南高校から4名が参加してくださいました。 品種は赤米2種(対馬・種子島)、壱岐黒米、そしてもち米のハリマモチの4種です。実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな・・ 児童はクラスごとに、3班に分かれて順次稲刈りをします。 最初に学芸員さんから説明がありました。道具は石包丁とのこぎり鎌の2種類を試しながら刈り取りを行います。 では、早速実践。 始めに古代体験として石包丁による刈り取り。 こちらは 刈るというよりも、稲のなっている上部分だけを折ってちぎるような感じなので「穂摘み(ほづみ)」と呼んでいます。 続いて、一列に並んで鎌による刈り取りです。 この鎌は、刃がのこぎり状になっているので、稲の根元に刃をあて、少し回転させながら切ると力もあまり必要ありません。でも、くれぐれもケガだけは注意して! 切った稲を3束ほどまとめ、切り口をできるだけ揃えて、後ろに控えている結束作業班に渡します。 こちらは、加古川南高校の方々です。結束作業の後は鎌での刈り取りと大活躍でした。    今回は天気も良く地面もほぼ乾いていたので、児童の刈り取り作業も早く進み結束作業は大忙しでした。 束ねた稲わらをボランティア団体のひょうご考古楽倶楽部の皆さんが稲木に天日干しし ていきます。 残りの1品種は職員とボランティアさんで刈り取りました。 田んぼの整理をして稲刈りは無事終了。   これらの稲は、乾燥させた後、 11 月に脱穀・籾摺りという作業を経てお米になります。 蓮池小の皆さんにとって、楽しい思い出となっていればうれしいです。

ほったんのなぜなぜ?教えてコーナー⑧ 秋の特別展見学

  (ほったん) 今日は秋の特別展を見に来たよ。 ポスターに「駅家発掘(うまやはっくつ)!」と書いてあるけど、“駅”はどう見ても“えき”と読むと思うんだよ。間違っているんじゃない?   (学芸員) 駅家(うまや)とは、7世紀の終わりに日本の朝廷が全国を支配し、情報や軍を移動させるために都市と地方を結ぶ道路を整備したんだけれど、その道路に一定間隔で馬を置いたり、 休憩する場所として設置された施設なんだよ。                              なるほど、 実際に地方を治めていく上で、より早く中央から地方へ行ったり、連絡したりする必要があったので道路整備がすすんだということか。 日本も国をまとめるために、いろいろな制度を作ったんだね。   この道路は交通はもちろん、通信手段としても重要で、約8 k m~16kmごとに「 駅(えき) 」をつくり、そこに乗り継ぎのための馬を5頭から20頭おいたんだ。駅には馬へんがつき、駅のことを「駅家」(うまや)と呼ぶのはこのためなんだ。ふつう私たちは駅というと、鉄道の駅を思い浮かべるけど、もともとはこのように「駅」は道沿いにあって、馬を備えた場所だったんだ。 そうか、当時の「駅」の主役は列車ではなく「馬」だったということなんだね。   そうだよ、この制度を駅制と呼んでいて、現在では、たすきリレーで長距離を走る「駅伝」に名前が残っているよ。 選手が馬、たすきが情報、交代するところが駅ということだね。   ふむふむ、これが播磨国の古代山陽道か~。 あれ、よく見ると 邑美 駅家 (おうみのうまや) だけ名前の前に(仮称)と書いてあるよ。 なんでかな ? 。   この駅家はJR魚住駅から1km北東に行った明石市の長坂寺(ちょうはんじ)遺跡だと考えられていて、柱や溝の跡、瓦などの遺物が発見されているよ。 ただ、駅家の名前が記録に残っていないので、仮に古い地名をとって邑美 (おうみ) としているんだよ。   そうか。  文書でしっかりと確認できないと、想像だけでは名...

古代体験講座「粘土でつくる古代の駅鈴」

  今回作成する「駅鈴」は”駅家”を利用するためには、必ず許可を得て携えておかなければならない重要な通行証のようなもので、公的な使者にのみ支給されていました。 これがなければ駅馬を利用し食事・宿泊などのサービスの提供を受けることができませんでした。 本来は青銅でつくられていましたが、この講座では粘土で作成します。 まずは、駅鈴がどのようなものか特別展の展示品(模造)を見学です。学芸員さんからの解説がありました。 現在残っている現物は 、 島根県隠岐の島町の玉若酢命(たまわかすのみこと)神社が保管している2口のみで国の重要文化財に指定されています。この駅鈴は昭和51年の郵便はがき(当時は20円)の切手部分のデザインに採用されています。 いよいよ体験学習室で作成に入ります。 駅鈴の設計図にあたる型紙をはさみで切ります。 のし棒を使って板状に成形していきます。 型紙のサイズに合わせてカッターで切り、側面、底面、上面、そして中に入れる玉をつくります。 これらを接合して組み立てていきます。 頂部分には紐を通すための穴を、そして側面には飾りの突帯を付けます。 駅鈴の形ができあがったら鈴口(鍵穴のような開口部分)を開けて、全体をきれいに整えていきます。成形には竹やつま楊枝を使って丁寧に行いますが、粘土が柔らかいので優しく扱わないといけません。 倒れないように底面に足を付けて、最後に側面に「驛」「鈴」と書き入れて完成。 できあがり! この後、乾燥させてから焼き上げます。 駅鈴のお渡しできる日は10月29日(日)以降になります。 どんな音が鳴るのか、完成をお楽しみに!

講演会②「賀古駅家と邑美駅家を語る」

  講演会「播磨の駅家を語る」シリーズ全 4 回の第 2 弾になります。 講演は、それぞれの駅家の発掘調査を担当した中村館長補佐が賀古駅家(かこのうまや)を、中川学芸員が邑美(おうみの)駅家について解説を行いました。 賀古駅家(加古川市野口町)は印南野台地の西端に位置し、様々な古文献から古大内遺跡がその駅家であると注目されていました。 平成 19 年に当館は開館しましたが、まず取り組むべき調査研究事業として「古代官道と駅家」が決定すると同時に、最初の発掘調査対象として賀古駅家が選定されました。 当館にとっても大事な駅家となっています。   古代官道の駅家に備えられる馬の数は重要度により 5 ~ 20 頭と定められていますが、この賀古駅家にはなんと 40 頭の馬が備えられていたということが、平安時代の文献『延喜式』に記されています。 全国一のものが私たちの近くにあるということで、もっと注目されてもいいのではないかと思いました。           邑美駅家(明石市魚住町)は印南野台地の東端に位置し、崖上から南東方向の明石駅家に延びる山陽道を見下ろせる、駅家としてまさに好適地に立地しています。 この遺跡は、当初地形図を作成していたところ、水田の畦の方向がこの部分だけ違う東-西、南-北の方向に向いていたため、周辺をレーダー探査で地下の調査を行った結果、畦の内側に明瞭な輪郭が確認され、それを基に発掘調査を行うこととなりました。   発掘してみると大量の瓦片が出土しました。このことから駅家には瓦葺きの立派な建物群が存在していたと考えられます。駅家を利用できるのは駅鈴を携えた使者のみであったことから、海外からの賓客に対して、我が国日本でもこのような施設を作る国力があるということを示したかったのでしょう。 講演会「播磨の駅家を語る」シリーズも半分が終了し、残り2回となりました。 まだ、2回とも申込みが可能ですので、ご興味のある方はご参加ください。ただし、第③回は既に申込期間を過ぎているため先着順での受付となります。ご了承ください。    10月21日(土) 播磨の駅家を語る③「高田駅家と大市駅家を語る」   先着順  11月25日(土) 播磨の駅家を語る④「出土遺物からみた山陽道の駅家」 申込11/...

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