駅鈴(えきれい)とは
現在、当館では令和5年度秋季特別展「駅家発掘!-播磨から見えた古代日本の交通史-」を開催中です。
展示品の一つに、駅鈴(玉若酢命神社所蔵、国重要文化財)の模造品(姫路文学館より借用)があります。
駅鈴とは、鈴のように音が鳴る通行手形のようなもので、飛鳥~奈良・平安時代に使われました。公的な用務で全国各地に出張する際に携行し、駅鈴を持っていると、専用道路(駅路:えきろ)が使え、一定間隔に設置された駅家(うまや)で馬を乗り換え、休憩、宿泊し、随行者(駅子:えきし)まで付けることが出来ます。
内乱(壬申の乱など)の際、駅鈴は交通権の掌握につながるものとして戦略上重要視されるなど、権力を象徴するものでもありました。朝廷によって厳重に管理されていて、令(法)の規定によると、兵庫県内では、摂津国・播磨国・但馬国・丹波国には3口、淡路国には2口の駅鈴がそれぞれの国の役所(国府)に備えられていました(養老令諸国給鈴条)。
現在は島根県の隠岐島に鎮座する玉若酢命(たまわかすのみこと)神社が所蔵されている2口のみが知られており、国重要文化財に指定されています。
昭和51年(1976)に発行された20円はがきの切手デザインにこの駅鈴が採用されているので、ご存知の方も多いかと思います。
松阪市の駅鈴
ところが三重県松阪市には、JR松阪駅の駅前に大きな駅鈴のモニュメントが設置され、マンホールのデザインにもなるなど、市を挙げて駅鈴を「推し」ておられます。なぜ、島根県の駅鈴が三重県で推されているのでしょうか。
その理由は、今から230年ほど前のことになります。
江戸時代の国学者として知られる本居宣長(もとおりのりなが)は、享保15年(1730)に現在の松阪市に生まれました。彼の学問に憧れた浜田藩(現島根県浜田市)の藩主、松平康定(やすさだ)は伊勢神宮への参拝途中に宣長と対面し、念願の講釈を受けることになります。自らの書斎や屋号を「鈴屋(すずのや)」とするなど、宣長の鈴好きは知られていたことから、康定は隠岐の駅鈴の模造品を鋳造し、宣長への贈り物としたのでした。
本居宣長にとっても、お殿様からいただいた駅鈴の模造品は特別な宝物であり、大切に保管されたため、現在も本居宣長記念館(松阪市)で見ることができます。
こうした縁があり、平成28年4月2日、浜田市と松阪市は「驛(駅)鈴で結ぶ浜田市・松阪市 観光・文化交流協定」が締結されるに至ります。
駅鈴は両市の交流を象徴する品となったのです。
天皇の権威と駅鈴
玉若酢命神社所蔵の駅鈴には一緒に国指定重要文化財として指定されているもの(附:つけたり)があります。それは「光格天皇御下賜唐櫃」と呼ばれる収納具です。
光格(こうかく)天皇は江戸時代後期の天皇で、ご在位中の天明8年(1788)のこと、「前代未聞の大火」と言われた大火事があり、天皇は下賀茂神社(京都市)まで避難されました。急ぎ御所を修築し、およそ三年後の寛政2年(1790)、新しい御所が完成すると、仮御所から新御所へと遷幸が行われました。その行列には隠岐島の玉若酢命神社に伝わる駅鈴も並んでいました。その時に下賜された唐櫃が駅鈴の附として今も共に保管されているのです。
光格天皇は、かつては全国統治のシンボルでもあった駅鈴を遷幸の行列に加えることで、古代における天皇中心の国家の姿を再現し、その皇統が今日まで連続していることを広く示そうとしました。そしてこの行列を見物していた人々の中に、わざわざ松阪から上京してきた本居宣長の姿がありました。
松平康定から駅鈴の模造品をもらうのはその後のことになるのですが、行列に並んでいた駅鈴の模造品をお殿様から贈られ、その喜びはひとしおであったことでしょう。
宣長は勉強で頭がつかれてきたり、研究がすすまなくなったときは、鈴の音を聞いて気分を変え、また勉強や研究を続けたそうです。
私もそろそろ鈴の音を聞くことにいたしましょう。
(学芸員 中村 弘)
<参考文献>
松尾充晶、2023年「浜田藩主、松平康定と宣長」『企画展 伊勢と出雲』島根県立古代出雲歴史博物館
伊藤純、2017年「隠岐国駅鈴と光格天皇-歴史の転換をもたらしたモノ-」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、大阪歴史博物館