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ほったんのなぜなぜ?教えてコーナー⑧ 秋の特別展見学

 (ほったん)

今日は秋の特別展を見に来たよ。


ポスターに「駅家発掘(うまやはっくつ)!」と書いてあるけど、“駅”はどう見ても“えき”と読むと思うんだよ。間違っているんじゃない?


 (学芸員)

駅家(うまや)とは、7世紀の終わりに日本の朝廷が全国を支配し、情報や軍を移動させるために都市と地方を結ぶ道路を整備したんだけれど、その道路に一定間隔で馬を置いたり、休憩する場所として設置された施設なんだよ。

                            

なるほど、実際に地方を治めていく上で、より早く中央から地方へ行ったり、連絡したりする必要があったので道路整備がすすんだということか。

日本も国をまとめるために、いろいろな制度を作ったんだね。

 

この道路は交通はもちろん、通信手段としても重要で、約8km~16kmごとに「駅(えき)」をつくり、そこに乗り継ぎのための馬を5頭から20頭おいたんだ。駅には馬へんがつき、駅のことを「駅家」(うまや)と呼ぶのはこのためなんだ。ふつう私たちは駅というと、鉄道の駅を思い浮かべるけど、もともとはこのように「駅」は道沿いにあって、馬を備えた場所だったんだ。


そうか、当時の「駅」の主役は列車ではなく「馬」だったということなんだね。

 

そうだよ、この制度を駅制と呼んでいて、現在では、たすきリレーで長距離を走る「駅伝」に名前が残っているよ。


選手が馬、たすきが情報、交代するところが駅ということだね。

 


ふむふむ、これが播磨国の古代山陽道か~。



あれ、よく見ると邑美駅家(おうみのうまや)だけ名前の前に(仮称)と書いてあるよ。

なんでかな?


 

この駅家はJR魚住駅から1km北東に行った明石市の長坂寺(ちょうはんじ)遺跡だと考えられていて、柱や溝の跡、瓦などの遺物が発見されているよ。



ただ、駅家の名前が記録に残っていないので、仮に古い地名をとって邑美(おうみ)としているんだよ。

 

そうか。 文書でしっかりと確認できないと、想像だけでは名前は付けられないもんだね。

でも、どうして1,300年も前の駅家がそこにあったってわかるの?


では、全国ではじめて駅家を確認できた、たつの市の小犬丸遺跡についてお話しするね。ここには昔から古い瓦がたくさんあることが知られていて、お寺の跡と考えられていたんだ。

昭和58年に道路の拡幅工事があったときに瓦ぶきの建物や塀の跡が見つかった。だけど、これだけでは小犬丸遺跡が布勢駅家だと決定できなかった。


へー 建物跡が見つかったんなら、十分だと思うけどね。

 

その後、昭和61年に再調査があり、遺跡から少し離れた水田の地表下1~1.5mのところに、幅7m、長さ35mの平坦地が見つかって、ここの場所や出土遺物の年代からその平坦地が古代山陽道の道路敷地と考えられたんだ。それまで古代山陽道は岡山と大阪のわずか1例ずつしか確認されていなかったので、当時としては大変珍しい発見だったんだ。

また、山陽道の近くに井戸や水田跡が見つかり、そこからもいろいろな遺物が出土したんだけど、そのなかに墨書土器(ぼくしょどき)といって、漢字や記号を土器の表面に墨で書いたものがあって、『驛』『布勢』と書かれていたんだ。

           須恵器坏 墨書「驛」(小犬丸遺跡:たつの市)


やったね。布勢駅家(ふせのうまや)の確定だね。


でも、この発見でも断定にはならなかった。


じれったい。文字まで出てきたら間違いないと思うんだけど。


というのは、この土器が駅家で使用されたとは限らない、他から持ち運ばれたという考え方もできるからね。


では、どうして断定できたの?


文献によると駅家には瓦葺きの建物があった。だから駅家跡であればそこからは瓦が発見される。ただし、駅家以外にも寺院跡ということも考えられる。

播磨国が関与した播磨国府系の瓦がまとまって出土する遺跡は14カ所あったんだけれど、塔跡があって確実に寺であるものは5カ所しかなかったんだ。


残りの9カ所は?


そこで、平安時代中期に作られた「延喜式」といわれる細かい決まり事について記載された文献を見ると播磨国で山陽道沿いのものは明石、賀古、草上、大市、布勢、高田、野磨の7駅だった。実はさっきの瓦の出土場所がこれらの駅とほぼ同じ地名の所に位置していたんだ。

そして足りない2カ所の「邑美」と「佐突」の2駅は、延喜式以前に既に廃止されていたらしい。

こうして周りの駅家についても明らかになり、駅間の距離もわかってきたので、『驛』・『布勢』の記された墨書土器があったということから、ここが布勢駅家と断定できるようになったんだ。


やっとはっきりすることができたんだね。


そして、「延喜式」には駅ごとの馬の頭数についても書かれていて、加古川市の賀古駅家(かこのうまや)には全国最多の馬、40頭が置かれていたことがわかっているんだ。


そんなに!? どうして?


実は邑美と佐突の2つの駅が廃止された時、邑美駅家にいた馬20頭のうち半分の10頭が、佐突駅家にいた馬20頭のうち半分の10頭が、それぞれ両駅に挟まれた賀古駅家に連れてこられて、結果20+10+10の合計40頭になったということなんだ。

              馬形埴輪(寺山古墳:明石市)


なるほど、そういう事情か。いろいろと話がつながっておもしろいね。

まだまだ、見るところが多いから、今日1日ではまわりきれないや。

またにしよっと。

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