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地元テレビ局の取材

考古博物館で地元テレビ局の取材がありました。 番組のコーナーで博物館の紹介をしてくださいます。 その撮影の様子をご紹介します。 元陸上オリンピック選手、兵庫県出身の小林祐梨子さんがリポーターです。 最初に当館の “いつでもできる古代体験” で好評のまが玉づくりに挑戦です。 当館職員の指導のもと、まが玉を砥石で削っているところです。 「結構きれいにできてますよね?」小林さんの明るい声が響きます。 楽しんでいただけましたでしょうか。 続いて当館の企画広報課長が館の説明をします。 小林さんの質問にテキパキ答えます。 当館で人気の「発掘ひろば」の紹介です。 特別展示室です。 開催中の企画展の内容について簡単に説明します。 屋外でも撮影しました。 東播磨の観光スポットが掲載されたパンフレットを紹介しています。 館内に戻って、常設展示コーナーの紹介です。 「ナウマンゾウは迫力ですね」と、角度を変えて撮影していました。 最後に、もう一度特別展示室で、ただいま開催中の企画展「金銀銅の考古学」を詳しく撮影して終了しました。  サンテレビの「ひょうご発信!」という番組の “教えて! ひょうご” のコーナーで、『兵庫魅力発見の旅 ~東播磨~』と題して、東播磨3市2町が取り上げられます。10分ほどのコーナーで、当館は播磨町の施設として2~3分紹介されるようです。  今回の撮影が、どのように編集されているか、非常に興味のあるところです。  番組の放送予定日は8月9日(日)8時30分~9時、再放送が8月10日(月)8時~8時30分です。ぜひご覧ください。     *  *  *  *  *  ようやく梅雨も明け、これから暑くなりますので、涼しい考古博物館にぜひお越しください。お待ちしております。  企画展「金銀銅の考古学」は、8月30日(日) までですのでお見逃しのないように!    ご来館に際しましては、マスクの着用や検温、ソーシャルディスタンス等、新型コロナウイルス感染予防にご協力をいただきますようよろしくお願いいたします。

#自宅でも考古博 32 「発掘こぼれ話6 兵庫県三ツ塚廃寺の発掘」

  1972(昭和47)年、大学院1回生になって、初めて調査員として参加したのが丹波市市島町の三ツ塚廃寺(遺跡)という白鳳時代(7世紀後葉)の寺跡だった。  春先に、西宮市にある甲陽中・高校の高井悌三郎先生が小林行雄先生を訪ねて来られていたのは知っていたが、そこで話が決まったのか、夏の発掘には三ツ塚に行くことになった。おまけと言っては何だが、その学年の後期の半年間、甲陽中学校で地理の非常勤講師をすることも決まった。   神戸新聞の壇上重光 さんと  調査団長は高井先生で、現場監督は京都大学考古学研究会の創設者の一人である橋本久さん(大阪経済法科大)。主力は神戸大学考古学研究会のメンバーだった。宿舎は遺跡近くにあった済納寺保育園の板敷きの大部屋。  調査員ということで、高井先生と橋本さんの指導を受けながら、かなり自由に掘らせてもらえ、たいへん勉強になった。しばらく辰馬考古資料館にいた大学の同級生の中田興吉さん(大阪学院大学)がいてくれたことも大きな助けになった。    男子は大部屋で雑魚寝だったので、夜は大騒ぎ。ビール大ビン1本がちょうど入る丼茶碗でがぶ飲みする猛者が何人もいた。飲んでいる最中に雨が降りだすと、そのまま全員現場に駆けつけシートを掛けてまわった。帰る前に毎日掛けておけば良かったのに。酔っぱらってトレンチに落ちたのもいた。  朝夕の食事はどこかの給食センターのものだったが、フライものが多く、1週間もすればイヤになった。ただ、カレーが出た時だけは大人気で競争になり、1杯目はかまずに流しこむものも現れた。   印象に残っているのは味噌汁。旨い不味いの問題ではなく、時々異物が入っていたのだ。最初は短い紐などだったが、針金になり、最後は金の差し歯になった。ああー。それが当たった学生は二度と味噌汁を飲まなくなった。と言うことは、他のものは飲みつづけていたということだ。    夏休みが終わり、学生が引きあげると、泊まるのは、ほとんど橋本・中田・和田の3人になった。午前2時、3時とトランプに興じ、それでも朝は7時起床。私は11月に結婚することが決まっていて京都にアパートを借りていたので、1週間で市島町の現場、京都のアパート、西宮の甲陽中学を三角まわりした。  アパートには妻になる予定の人がすでに入っていたが、初めて帰った時、2間し...

才村遺跡の現地説明会

(才村遺跡全景) 梅雨とは思えない青空の下、7月18日(土)に(公財)兵庫県まちづくり技術センター埋蔵文化財調査部が発掘調査を行っている才村遺跡の現地説開会が開催されました。  今回はその様子をリポートします。  参加された皆さんには、新型コロナウイルス感染症対策として、マスクの着用、検温、手指の消毒、連絡票の記入をお願いしました。  また、「三密」防止のため、まちづくり技術センター職員による遺跡・遺物の説明も、担当する職員を多くして、少人数のグループに分散して行われました。 (調査区南半の柱穴群) (暗文土器:あんもんどき)  遺跡からは、大きく分けて奈良時代~鎌倉時代と古墳時代から飛鳥時代の遺構・遺物が見つかっています。奈良時代から鎌倉時代の遺構には掘立柱建物・柱穴群があり、新聞で報道された暗文土器(あんもんどき)や稜椀といった特殊な遺物も出土しています。  (カマドのある竪穴住居) (流路から出土した土器)  古墳時代から飛鳥時代の遺構としては、竪穴住居跡が20棟以上見つかり、流路からはこの時期の土器が大量に出土しています。竪穴住居はカマドを持つものが多く、カマドには土器が残されていました。  説明会は多くの方に参加していただき、また感染症予防対策にも協力いただいて、盛況のうちに終わりました。今後もこのような機会を持ちたいと存じますので、よろしくお願いいたします。

にちようびの古代体験

新型コロナウイルス感染症のため中止になった夏休みの古代体験の代わりに、 8月までの毎日曜日に日替り体験講座を開催します。 19日はその第1回目として、「はにわマグネットづくり」を開催しました。 飛沫感染を防止するため、説明のいらない簡単なものから始めてみました。 埴輪や土器など自分が作りたい形の型を選びます。 型はシリコンで出来ていて、粘土がうまくはがれるように小麦粉を塗布します。 この 型に粘土を詰め込みます。 型から外して粘土を乾かします。 乾いたころを見計らって、 裏に 磁石を貼り付けます。 こんなのができました。 体験時間10分ほどで完成です。 冷蔵庫にメモを貼り付けるときに可愛くて便利です。   *   *   * まだ本格的な体験はできませんが、 コロナの様子をうかがいながら、 少しずつ出来ることをやっていきます。 「にちようびの古代体験」は当日受付。ここでお待ちしています。 何ができるかは来館してのお楽しみ。 次回は7月26日、体験は13時30分からです。

#自宅でも考古博 31 「発掘こぼれ話5・京都市中臣遺跡の発掘」

 1971 年。 5 回生の時、北山修さんが考古学研究室にやってきた。京都府立洛東高校の生徒だった岡本英和・洋兄弟が、京都市山科区の住宅地の一角で弥生土器を発見したが、ほっておくと遺跡が壊されてしまうので何とかしてくれという話だった。  そこで、急遽、大学院生の山本忠尚さん(天理大学)を中心に発掘をすることになった。調査主任は田辺昭三さん(京都市埋蔵文化財研究所)。北山さん、川西宏幸さん(筑波大学)、和田等が参加した。  三叉路の道に面した三角形状の狭い土地だったが、弥生時代中期前葉( 2 様式)の方形周溝墓と古墳時代末期の石槨化した小型の横穴式石室が発見された。  方形周溝内からは保存状態のいい土器がいくつか出土したが、いずれも近江系の土器で、この資料をもとに近江の第 2 様式土器を新古に区分できる可能性があるということだった。  その年の秋、今度はこの住宅地の下にある水田が広い範囲で区画整理されるというので、道路部分を発掘する話が持ちあがってきた。田辺さんが調査主任、京都大学大学院生の桃野真晃さんが現場監督。平安京調査会のメンバー(後、京都市埋蔵文化財研究所)、丹羽佑一(香川大学)、和田等が参加した。  弥生時代終末期~古墳時代前期と古墳時代後期後葉~飛鳥時代前葉の 2 時期の竪穴建物が多数検出された。前者は円形と方形の竪穴建物を中心とした拠点集落、後者は方形の竪穴建物を中心とする一般集落かと思われる。 この時、自分たちのチームで竪穴建物を 5 、 6 基掘りきったことが大変良い勉強になったし、自信にもなった。 この発掘で印象に残ったのは、一つは弥生終末~古墳初頭の土器で、この時、出土したもののほとんどが、「受口状口縁甕」を中心とする近江型の土器だったことである。畿内系の「くの字状口縁タタキ甕」は 2 片ほどしか出なかった。京都とは言っても、山科盆地は近江の勢力圏なんだと強く感じた(後の調査では後者が増えている)。      近江型(左)と畿内系(右)の土器  ( 京都市文化観光局・京都市埋蔵文化財研究所 1986 『中臣遺跡発掘調査概報』より転載)   もう一つは、弥生の竪穴建物の中央部はすぐには埋もれず、古墳時代の終わり頃になっても窪んでいて、須恵器が数多く捨て...

#自宅でも考古博 30「副葬品を入れるとしたら?」

 テーマ展示室の「交流」のコーナーに入ると、目の前に大きな石棺が現れます。  古代船(準構造船)とともに、圧倒的な存在感を発揮していますね。  この展示品も古墳時代と同じように、高砂市から加古川市にかけて産出する「竜山石(たつやまいし)」を使って復元しています。しかも、どうせなら竜山石製石棺のうちで最大、しかも現在は陵墓参考地として目にすることができない見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳ともいいます。奈良県橿原市)の家形石棺を原寸大で復元し、修羅という木ソリで運ばれていく様子を再現しています。 家形石棺 竜山石で復元(当館テーマ展示室)  さて、古墳時代の有力者が亡くなると、なきがらと一緒にお墓に入れられる貴重品がありますよね?  そう、副葬品です。  遺跡の発掘調査に憧れ、考古学を志す者が圧倒的に夢見るのが古墳の発掘。そして一体どんな副葬品が眠っているのか、想像するだけでワクワクしてきませんか。  私も中学時代に、藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の未盗掘の石棺が発掘されるという報道に接しました。ファイバースコープを入れて石棺内部の様子を探るというニュースを、テレビにかじりついて固唾を飲んで見守った思い出があります。 藤ノ木古墳の記者発表を行う 石野名誉館長 (当時奈良県立橿原考古学研究所副所長) 朝日新聞社『アサヒグラフ 藤ノ木古墳大特集』(1988)より  ところで、古墳にはどのような副葬品が、どのような場所に納められていたのでしょうか?  大きな古墳は過去に盗掘されていることが多く、なかなか埋葬当初の様子をうかがい知ることができる機会は多くありません。長年発掘調査に携わっている調査員でも、埋葬当初のままの石室を掘り進み、手つかずの棺の蓋をあける幸運な経験に恵まれるのはほんの一握りの人でしょう。  私もまだ蓋を開けたことはありません。  では、古墳の埋葬施設に副葬品の置かれた様子を見てみましょう。  イラストは古墳時代の前期(3世紀後半から4世紀頃)の埋葬施設を佐賀市金立銚子塚(きんりゅうちょうしづか)古墳の発掘調査成果をもとに描いた想像図です。 前期古墳の副葬状況想像図 (佐賀県立博物館『日本の古墳』1998より)  有力者のなきがらの右脇には、大刀が先を足元に向けて置かれ...

#自宅でも考古博 29「発掘こぼれ話その4-電話に出た古墳時代の「ひとみさん」-」

当館のテーマ展示「人」のコーナーには、ある一人の女性が開館当初からずっといらっしゃいます。 その方のお名前は「ひとみさん」。 本名はわかりませんが、私たちが勝手にそう呼んでいます。 ひとみさんは今から約1,700年前の古墳時代前期に、朝来市和田山町でご活躍されていました。もちろん今はお亡くなりになり、骨になってしまっています。 ひとみさんの展示 「ひとみさん」とお呼びするようになったきっかけは、今から約30年前、ひとみさんのお墓である向山2号墳(朝来市)を発掘していた時のことです。 兵庫県に就職が決まってまもない頃の私は、初々しく、はしゃぐように発掘をしていました。 調査が進むと、古墳は一辺10mほどの方形であることが明らかになり、その中央からは大きな墓穴がみつかりました。墓穴を掘り進むと丁寧に組んだ石の蓋が出てきました。 丁寧に組まれた蓋石 図と写真による記録をとり、慎重に蓋を外しながら中をのぞくと、、、、 中には人骨が残っていて、目と目が合い(目はないけどそんな気がした)、ドキッとしたことを今でも憶えています。 ひとみさんの埋葬の様子 ひとみさんのお墓はベンガラで真っ赤に塗られた竪穴式石室で、意図的に割られた中国製の内行花紋鏡が枕元に、2本のヤリガンナ(木を削るカンナの一種)が肩の辺りに置かれていました。 石室の外には2つの土器が供えられ、玉砂利が石室周辺と棺内に敷かれていました。 手厚く葬られていて、地域の人々から信任され、愛されていたことがわかります。 赤く塗られた石室と 供えられた土器 意図的に割られた 中国製の鏡 (小型の内行花紋鏡) 発掘調査で人骨が出土すると、形質人類学がご専門の大学教授に現場を見ていただき、年齢、性別、身長、その他の身体的特徴を教えていただいています。   ひとみさんの調査の時も先生に連絡をとり、現場まで見に来ていただきました。 すると、 「この方はきゃしゃで、美人さんですね。例えるなら、黒木瞳さんのような方です。」 とのお言葉。 この時から、私たちはこの方のことを「ひとみさん」と呼ぶようになりました。 先生のお話によると、ひとみさんは ①40~60歳の熟年女性 ②身長は約150センチ ③虫歯があり、生前に上の左右...

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