開催中の秋季特別展「丹波焼誕生-はじまりの謎を探る-」に関連しての講演会が開催されました。
講師は、当館の松岡千寿学芸員。特別展の担当者で、焼物を専門とし、特に丹波焼の研究をライフワークにしています。今回の特別展のテーマ、“丹波焼のはじまり”について、その謎を長い間探ってきました。
【丹波焼とは】
兵庫県丹波篠山市今田町立杭で生産されたやきもの。歴史は古く、中世から現在まで生産が続く代表的な六つの産地の一つで、常滑、信楽、備前、越前、瀬戸とあわせて日本六古窯(こよう)と命名され、日本遺産にも認定されています。
立杭焼、陶の郷(すえのさと) と聞くと、皆さんにも馴染みがあるのではないでしょうか。
現在も60件の窯元が生産を続けており、生産から販売までを各窯元で行っている家内制手工業の体制は、丹波焼の特徴なのだそうです。
【丹波焼のはじまり】
須恵器は平安時代になると、全国的には衰退していきましたが、丹波焼以前の地元周辺を見ると、播磨では、より須恵器の生産が活発になり、日常雑器の他に京都の寺院に用いる瓦も生産していたようです。
尾張国(愛知県)の猿投(さなげ)窯では、平安時代初め頃から、須恵器から発展した緑釉陶器や灰釉陶器を生産するようになったとのこと。
その後、渥美窯、常滑窯、瀬戸窯では、灰釉陶器の流れをくむ瓷器系陶器(しきけいとうき)が生産されるようになりました。
そして、兵庫県内でもそれらの国産陶器が使われ始め、やがて生産が始められます。はじめに見つかった西脇市の緑風台窯跡では、窯の薪を焚く部分の中央部に柱(分焔柱)がみつかりました。この窯の構造は東海地方の陶器窯の技術が用いられているのではないかと考えられるそうです。この窯では、高級な陶器の生産が行われたようですが、長くは続かなかったのこと。
【丹波焼誕生】
昭和52(1977)年に行われた丹波篠山市の三本峠北窯跡の発掘調査は、窯跡本体ではなく、窯の下のゴミ捨て場(灰原)の調査で、鎌倉時代前半の常滑焼に類似する甕、渥美焼などに知られる絵が描かれた壺の陶片(刻画文陶器 :こくがもんとうき)が発見されました。多くが失敗品だったようですが、三本峠北窯跡は緑風台窯同様、瓷器系の窯業技術で生産されたと考えられ、それらの地域から工人が来訪し、技術の伝搬が行われた可能性が高いとみられています。
三本峠北窯跡からは草花文、連弁文、三柏文などが刻まれた陶片や、重要文化財の菊花文三耳壺(きっかもんさんじこ・個人蔵・愛知県陶磁美術館寄託)と同じ文様の陶片などが見つかっていますが、丹波の刻画文陶器は、他産地の刻画文陶器との共通性は少なく、同時代の和鏡などの工芸品との類似性の方が強いと思われるとのこと。
【刻画文陶器と中世のやきもの】
刻画文陶器は、平安時代初めに東海地方の猿投や渥美でつくられるようになり、珠洲(石川県)、丹波(兵庫県)、越前(福井県)などでも作られました。
各地の刻画文陶器は、文様に違いがあり、産地ごとに特徴がみられるとのことです。また、大量生産ではなく、いわゆるオーダーメイドで、ある程度の権力者によるあつらえものと考えられています。
丹波焼の始まりには、あつらえものである刻画文陶器がつくられましたが、その後は、日常雑器が作られ続けました。800年近く続いているのは、庶民のやきものであり続けたことと、丹波が都である京都に近かったので、流行を取り入れやすかったことなどが要因であるそうです。
【結び】
今後の丹波焼研究の課題としては、丹波焼は誰が始めたのか、焼物の技術はどの産地から伝えられたのか、窯の構造はどのようなものだったのか、といったことが挙げられるとのことで、三本峠北窯の窯本体の発掘調査やその周辺の調査がもっと進めば、新たな事実が発見される可能性は高いと、期待しているそうです。
確かにこの丹波焼の甕と常滑焼の甕は形がよく似ていますね。まったく一緒ではありませんが・・・。皆さんの目で確かめてみてください。
(講演会後の展示説明会)
秋季特別展「丹波焼誕生」は、11月27日、日曜日までです。お見逃しないようご来館をお待ちしています。