4月30日、春季特別展関連講演会の第1弾「大中遺跡の過去と今」を開催しました。講師は、本展覧会主担当の藤原怜史学芸員です。
講演では、大中遺跡の60年のあゆみをたどりながら、全国の弥生遺跡の調査事例をふまえつつ、現在の視点で見る大中遺跡の魅力をご紹介しました。
ここでご紹介する「大中遺跡」とは、大中遺跡 (播磨町)と山之上遺跡(加古川市)にまたがった弥生時代の集落のことを指し、展覧会では「大中遺跡の弥生集落」として扱っています。
大中遺跡は1962年に中学生3人が発見し、同年6月25日に「遺跡発見届」を提出。1967年には国の史跡に指定されました。
大中遺跡は1962年に中学生3人が発見し、同年6月25日に「遺跡発見届」を提出。1967年には国の史跡に指定されました。
さらにそれより前の大正時代には、鉄道増設工事の際に土器が出たこともあり、「遺跡があるのではないか」と知られていたとのこと。
史跡指定を受けた当時、「大中遺跡のここが重要視された」というポイントとして、
・発掘当時は事例がなかった平面形が六角形の住居跡をはじめ、バリエーションに富んだ住居跡が見つかったことから、住居の時期的な変化が明らかになったこと。
・「鏡は古墳から出土するもの」と考えられていたが、弥生時代の竪穴住居跡から中国で作られた内行花文鏡の破片(破鏡)が出土したこと。
・竪穴住居跡から多量の土器が出土したことで、東播磨地域の遺跡の年代を測る「ものさし」となること。
などを挙げました。
今まで60年間の調査成果として、集落(居住域)の範囲は7~8万㎡、竪穴住居跡が約140棟見つかっています。その住居の大多数は、弥生時代後期後半~終末期の約200年の間につくられたものとみられ、同時に10~20棟の竪穴住居が存在していたことが明らかになっています。
<弥生時代の鏡の分布傾向>
弥生時代の鏡というと主に、完形の舶載鏡(中国・朝鮮で作られた鏡)、破鏡(割った後も使用された鏡の破片)、小型仿製鏡(こがたぼうせいきょう/舶載鏡を模して日本で作られた鏡)などがあり、出土例が増えたことで、分布傾向が見えてきました。
上の「破鏡・小型仿製鏡の分布図」を見ると、大中遺跡は墓からの出土と集落からの出土が変化する地域のちょうど境界にあたり、文化圏の違いを考える手がかりになるかと考えられます。
<大中遺跡の鉄器事情>
大中遺跡の最盛期である弥生時代後期は、石器を中心とした生活スタイルが鉄器中心に転換し、大きな変化があった時代です。鉄器はリサイクルができる上にさびて形が無くなってしまうことから集落遺跡ではあまり出土しませんが、大中遺跡からは多数の鉄製品や、鉄を砥いでいたと考えられる砥石が出土したことから鉄器の普及ぶりがうかがえます。
さらに、高温で焼けた住居床面の周囲から鉄片や、鉄器づくりの素材となる板状鉄製品なども出土しており、鉄器づくりもしていた可能性が高いと考えられます。
他にも、大集落の要素である他地域との交流の証拠や、特殊で注目すべきものとして、
・平面形が長方形で、床面の短辺に高床部を持ち、2本柱で屋根を支える特徴的な竪穴住居が見つかっている。こうした特徴をもつ竪穴住居が福岡県八女市の室岡遺跡群で多く見られることから、北部九州との繋がりがあったと考えられるが、大中遺跡からは北部九州の土器は見つかっていない。
※こういった2本柱の住居を、当館の石野名誉館長は「室岡型住居」と名付けています。
・床面にベンガラ(鉄分を主とする赤色顔料)が散った竪穴住居跡やベンガラの塊が出土していることから赤色顔料をつくった工房があったと評価されている。
・床面にベンガラ(鉄分を主とする赤色顔料)が散った竪穴住居跡やベンガラの塊が出土していることから赤色顔料をつくった工房があったと評価されている。
などを指摘しました。
そして最後に大中遺跡のもつ強みや「未来に向けてのキーワード」として、
「集落研究としての重要性はもちろん、“地域みんなで守ってきた遺跡”という地域のシンボルとしての重要性を大切にし、親しみを持って史跡を活用していただけたら」と講演を結びました。
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講演会の内容については展覧会図録で詳しくご紹介しておりますので、ご興味のある方はぜひご覧ください。図録のご案内はこちら