スキップしてメイン コンテンツに移動

年明け早々ですが、現地説明会があります。

年明け早々ですが、現地説明会があります


新年、あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いします。

さて、

まだ正月気分の方もいらっしゃるかもしれませんが、発掘調査の現地説明会があります。

今回の現場は、丹波市柏原町の「柏原(かいばら)藩陣屋跡」です。



柏原藩は、慶長3年(1598)、あの織田信長の弟、信包(のぶかね)が封ぜられましたが、家系が絶えてしまい、天領となりました。その後、元禄8年(1695)に大和宇陀郡松山より織田信休(のぶひさ)が移封され、その子孫が代々2万石を領し、明治維新まで織田家が藩主となっていた由緒ある藩です。

藩邸は正徳4年(1714)にはじめて造営されましたが、文政元年(1818)に焼失してしまいます。その後再建され、明治5年(1872)の学制発布の翌年に豊岡県より払い下げられ、崇広小学校の校舎となりました。

柏原藩陣屋が大名陣屋の構造としてのみならず、それが明治の小学校校舎に転用され、現在も続いていることは、日本の学制の発達を知る上でも数少ない事例です。

こうした理由から、昭和46年(1971)、「柏原藩陣屋跡」として中心部分が国史跡に指定されました。


さてさて、

発掘調査は柏原総合庁舎の長寿命化改修工事に伴って実施されました。

調査の結果、柏原藩陣屋内の土地利用が分かる重要な成果が得られると共に、近世末(約150年前)に柏原藩の藩校として創設された崇廣館(そうこうかん)に関わる遺構が見つかりました。

崇廣館は安政5年(1858)に設置され、明治時代以降も施設の一部は引き続き利用されるなど、丹波地域の教育拠点としての役割を果たしていました。



石組み遺構(手前の石積み箇所)と礎石(奥に続く石列内)


陣屋に関わる遺構も見つかっています。

近世後期の瓦列です。建物あるいは土地を区画した溝の一部と考えられます。


明治時代の桶(おけ)と甕(かめ)も出土しました。

この遺構は崇廣館に隣接する厠(かわや=トイレ)の跡と考えられます。


  埋桶()と埋甕()


【現地説明会情報】


「柏原藩陣屋跡 現地説明会」
日 時 : 令和8年1月10日(土) 10:30~12:00  
場 所 : 柏原藩陣屋跡発掘調査現場
※JR「柏原駅」から徒歩10分程度です。
※駐車場あり。
(台数に限りあり。公共交通機関等をご利用ください)
※雨天中止です。


発掘現場のすぐ近くには、国指定史跡の柏原陣屋跡にある陣屋の表御門(長屋門、県指定)と、表御殿(一部)があります。
また、隣接する柏原歴史民俗資料館・田ステ女記念館では藩主一族伝来の武具や古絵図などを見ることができます。
(田ステ女というのはあの「雪の朝 二の字 二の字の 下駄の跡」という有名な句を詠んだ俳人です)

現地説明会を機会に、一緒にご覧になってはいかがでしょうか?

兵庫県観光サイト HYOGO!ナビ 


このブログの人気の投稿

あなたは縄文人? 弥生人?

人の顔形はさまざま! 顔の輪郭、髪の毛、眉の形、目・まぶた・鼻・口の形は各人ちがいますが、 これらのパーツも縄文人に多い形、弥生人に多い形があります さて、あなたは 縄文人? 弥生人? まずは「自分の顔をつくってみよう」 縄文顔:四角い顔、太い眉、どんぐりまなこ、二重のまぶた、広がった鼻、分厚い唇、毛深い 弥生顔:面長顔、細い眉、切れ長の目、一重のまぶた、小さな鼻、薄い唇、ひげが薄い まず自分の顔をつくってみましょう これらのパーツをつかって・・・ 自分の顔をつくってみましょう そして、左のページを持ち上げ、右の顔に被せるように折りたたみます そして開いてみると 左に顔が移りましたが、 緑 と 橙色 のパーツに 緑は縄文人 橙は弥生人 各パーツが混じっています 現代人は 縄文人的な要素 と 弥生人的要素 が混じっているのです。 中国大陸や朝鮮半島などから各時代に渡来し、混血し、今の日本人になったと考えられます 「自分の顔をつくってみよう」 は 考古博テーマ展示室「人」のコーナーにあります 是非自分の顔をつくって、試してみてください!

官兵衛は有岡城で幽閉されていなかった!?

8月9日(土)台風11号接近の中 大勢の参加者でした 「摂津国の城と官兵衛の足跡」 伊丹市教育委員会社会教育課長 中畔明日香さん 有岡城のある伊丹の変遷を主に講演! 室町時代・・・伊丹氏の活動拠点 室町時代末ごろ1573年織田信長から摂津国一職として摂津国を治める権利を与えられた・・・ 荒木信濃守村重 天正2年1574年伊丹氏を追放し荒木摂津守村重が入城 天正6年10月ごろ信長を見限る 同年12月信長軍、総攻撃するも惨敗 天正7年10月信長軍、侍町を焼く(発掘でも裏付けられた) 黒田官兵衛は 天正6年11月以降に有岡城へ、村重説得に・・・ 有岡城で土牢で幽閉されたと言われているが、城内には世話人もいたとか・・・ 土牢は確認されていない プライベートでは官兵衛と村重は懇意にしていたとか・・・ 台風接近の中 100名を超える方々が聴講されました 土牢から見た「藤」に元気づけられたとか・・・ どうも作り話らしい 文献などが少なく、史実に不明なことが多いのですが・・・との説明 判りやすく 有岡城と荒木村重と黒田官兵衛について説明いただきました 講演後、お忙しいところ 特別に解説 解説会において「摂津国の城」パネル資料が配付されました! 11月に開催される 伊丹ロマン事業へどうぞお越しください! 【お知らせ】 講演会 兵庫五国の考古学 8月23日(土)13:30~15:00 ( 入場整理券配布13:00) 淡路国の城と官兵衛の足跡 講師 金田 匡史(洲本市教育委員会) 当日受付 定員120名 無料(講堂にて) 官兵衛が活躍した時代「淡路国の城」の実態はどうだったのか 毎回、大勢の聴講者がいらっしゃいます 講堂内が定員になりましたら メインホールにてモニター席での聴講になります ご了承ねがいます こうこはくはクールスポット期間中 7月1日(火)~9月30日(火)まで 観覧料金は通常料金の 半額 です 詳しくは下記を参考に http://w...

講演会 弥生時代の兵庫②「石・鉄・銅の武器-弥生時代の兵庫-」

兵庫考古学研究最前線2022、『弥生時代の兵庫』第2弾は「石・鉄・銅の武器-弥生時代の兵庫-」と題して開催されました。 本日の講師は、公益財団法人兵庫県まちづくり技術センター埋蔵文化財調査部の園原悠斗さんです。 原始古代における武器は、弓矢、剣、刀、ヤリなどで、中でも弓矢は弥生時代から中近世に至るまで主たる武器として用いられており、特に矢の先端 の鏃(やじり)の部分の材質や形態、寸法などの違いは、当時の社会像を復元するうえで、考古学研究では欠かすことのできない注目点だそうです。この講演会では、弥生時代1,000年における武器の変容と、古墳時代に向かっての社会の変遷について、弓矢(鏃)に焦点を当てて解明してくださるとのこと。 会場は今回もほぼ満員のお客様、いつもありがとうございます。 鏃の材質には、石、鉄、青銅、木材、動物骨、牙などがあるそうですが、木材や、骨、牙などは大半が地中で朽ちてしまい、分析するほどの数がないそうです。そこで、多く出土し、ある程度原形をとどめている石、鉄、銅について分析するとのことです。 矢は、大まかにいえば、先端の鏃と木製の柄の部分(柄の後方は矢羽を設える)と、柄の先端に鏃を取り付けるための根挟みという部材でつくられています。鏃には獲物に刺さる先端部分(刃部)と、根挟みや矢の柄に取り付けるための部分(基部・茎部)に分けられ、先端の形状や基部の形状も時代や地域によって特徴があるそうです。 1 石の鏃について 石の鏃の基部の形(上図2段目及び3段目)を見ると、弥生前期は凹基式(2段目左端)が8割以上で、これは縄文時代の影響が色濃く残っているのではないかということです。武器と土器とでは縄文時代の影響の受け方に多少差があるようです。 弥生中期前葉では凸基式が出現しますが、兵庫県は近畿地方では遅い出現だそうです。前期と同じく最も多いのが凹基式で、次に平基式(2段目の左から2番目)が多いそうです。 中期中葉からは地域によって差が出始め、西播磨では凹基式か平基式、東播磨では凸基式、続いて平基式、西摂地域では凸基式、続いて短茎式(上図2段目右から2番目)、弥生中期後葉では、短茎式が一番多く、凹基式、平基式は3割以下になり、近畿地方的文化の西方波及が読み取れ、弥生後期になると、出土量が激減し、短茎式、平基式に加えて、凹基式が散見される程度となったようです。 な...

過去の記事一覧

もっと見る