特別展「 動乱!播磨の中世~赤松円心から黒田官兵衛まで~ 」の見どころをご紹介する4回目です。今回は、赤松家・足利将軍家ゆかりの絵画・文書についてです。
三代将軍義満(よしみつ)から六代将軍義教(よしのり)にいたる14世紀後半~15世紀前半の1世紀足らずの時期は、室町幕府の全盛期であると同時に、赤松氏も則祐(そくゆう/のりすけ)・義則(よしのり)・満祐(みつすけ)と続く全盛期にあたります。
しかしこの時期は、幕府権力の強化を図る将軍と、それを排除し在京有力守護の合議制による幕政の維持を図ろうとする守護勢力との確執が、次々と内乱を引き起こした時代でもありました。
応永34年(1427)、赤松満祐の父義則が亡くなると、義持は播磨・備前・美作国(岡山県東北部)を召し上げようとしました。義則の後継者であった満祐は、これに反抗して、京都の自邸を焼き払って播磨に下国し合戦の準備を始め、義持は追討軍を派遣するという事件が起こりました。
しかし、三ヶ国は満祐に安堵されて落着しました。この事件は、十数年後に起こる「嘉吉の乱」の前哨戦とともいえる出来事となりました。
一方義持は、歴代の将軍と同じく禅宗に深く帰依していたと言われています。
室町時代に、禅宗の発展に伴って請来された書画・調度類をもとに独自の文化が形成されました。
彼らはその庇護者であると同時に、自らも請来画に倣った書画を製作しました。
本図は、義持自らの手による寒山図(かんざんず)です。寒山とは、唐代、天台山国清寺の豊干禅師に仕えたという隠者で、文殊菩薩の化身とされています。
義持の画作は、素人の域を超えた高い精神性を示しており、本図の他に水墨画の達磨、布袋などの人物画が伝わっています。
六代将軍義教は、治世の初めは宿老たちの意向に従い合議制を守りましたが、次第に将軍専制を志向し、公家や諸将を僅かな過ちで大量に処分し、「悪御所」と呼ばれました。
また、強訴(ごうそ)を繰りかえす延暦寺を弾圧したり、守護家の家督相続にも積極的に介入、ついには有力守護の一色義貫・土岐持頼を暗殺、畠山持国を追放しました。
このような義教の横暴ぶりに、先手を打つことで将軍の魔の手を逃れようとした赤松満祐は、嘉吉元年(1441)6月、義教を自邸に招いて暗殺してしまいます。
その後満祐は、幕府の追討軍を播磨で迎え撃ちますが、敗れて城山城(きのやまじょう/たつの市)で自害、赤松総領家は滅びました。これが嘉吉の乱(かきつのらん)です。
下記の2図
報恩寺奉加帳 (部分)永亨4~5年(1432~1433)
(加古川市 報恩寺蔵/加古川市教育委員会写真提供 兵庫県指定文化財)
この奉加帳は、嘉吉の乱が起こる8・9年ほど前に書かれたと思われるもので、報恩寺(加古川市)に金品を寄進しようとした左大臣=義教をはじめ、三管領の細川・畠山・斯波、一番左には「性具」=満祐の花押が見えます。
ここに名を連ねている人たちは、後に起こる嘉吉の乱の関係者であり、たいへん興味深い史料といえます。
特別展は12月1日(日)まで開催中です。まだ間に合います!!
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