6月4日、大中遺跡発見60周年記念春季特別展の記念シンポジウム「大中遺跡とその時代-東播磨沿岸部の弥生集落-」が開催されました。
今回のシンポジウムは、東播磨沿岸部に点在する弥生時代後期の集落と大中遺跡を比較することで、大中遺跡がどのような環境に置かれていた集落だったかを探るというのがテーマです。
事前報告は、特別展の主担当、藤原怜史学芸員が「大中遺跡の集落像」と題して発表しました。
大中遺跡の発見から国史跡に指定されるまでの経緯に始まり、竪穴住居跡の時期による特徴の変遷、出土品の特徴、弥生時代の鏡や鉄器の事情、竪穴住居跡に残っていたベンガラ等について報告がありました。また、海が生活圏にある集落であることや竪穴住居跡の分布や特徴的な遺物などから、大中遺跡における集落内でのグルーピングの試案などの解説がありました。
最初に明石川流域の集落遺跡の動向として、弥生時代中期から古墳時代初頭と経過していく中で、集落の形成された位置や規模の変化について説明していただきました。
次に明石川流域の集落の特色として、小形仿製鏡・破鏡、鉄製品、外来系の土器の出土状況と、大中遺跡同様、竪穴建物が円形主流から方形主流へ変化したことや、北部九州に見られる室岡型住居が確認されていることなどを解説してくださいました。
最初に、大中遺跡前夜(弥生時代中期後半)、大中遺跡併行期、大中遺跡以後(古墳時代初頭)とそれぞれの時代の加古川下流域3大遺跡(溝之口遺跡、美乃利遺跡、坂元遺跡)を中心に、集落の規模や位置、出土品等について説明していただきました。
また、加古川中流域から見た大中遺跡は、溝之口遺跡や坂元遺跡を引き継いだのが大中遺跡なのか、大中遺跡隆盛期には加古川下流域の集落は大中遺跡の衛星的なムラとして機能していたのか、大中遺跡後に成立した古墳の母体集落はどこなのか等について解説してくださいました。
弥生時代の時期区分として以下のようにご自身の見解を示されました。
・弥生前期~中期前半(縄文時代以来の部族制温存)
・弥生中期後半(弥生的な部族制 リーダーの存在)
・弥生中期末から後期初頭(社会変動期)
・弥生後期(単純期首長制 チーフの出現)
・弥生終末期から古墳時代初頭(複雑期首長制への移行期)
また、打製石鏃の大変化(形態、材質、重量、断面など。射程距離より貫通力重視の傾向になった。)、青銅器の価値観、青銅器の生産体制と近畿弥生社会、銅鐸が埋められた契機や巨大化していく銅鐸の背景、弥生小形仿製鏡、会下山遺跡の発掘、金属器の生産構造、兵庫県では珍しい小銅鐸の出土等々、盛りだくさんの研究成果を紹介してくださいました。
休憩後は、先ほどの発表者がパネラーとなり、当館の和田晴吾館長の進行による討論会です。大中集落や明石川流域の弥生集落、加古川下流域の弥生集落からの土器、鉄器、鏡等の出土状況から、それぞれの地域にある遺跡の特徴、他地域との交流の状況、人の移動などの可能性を討議しました。
討論会の最後に和田館長が各パネラーに、「大中遺跡に対して何かありましたら」と問いかけました。
森岡氏:大中遺跡は、遺跡が国史跡に指定される先駆けとなった遺跡、これからも見守っていきたい。
池田氏:大中遺跡は集落のあり方を考えるうえで、従来と違う集落ということや、この時代の経済特区のようであり未知の部分も多く、今後の研究に期待します。
山中氏:発見から60年経って、また新たな事実の発見がある。加古川流域の遺跡としてこれからも期待しています。
最後に、播磨町郷土資料館の深井明比古学芸員から、「秋に大中遺跡に関する展覧会を行うので、ぜひお越しください」とご挨拶がありました。
今回のシンポジウムについては報告書を作成します。どのような形でご覧いただけるかは未定ですが、準備ができましたら当館のSNSを通じてご連絡いたします。お楽しみにお待ちください。