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6月, 2020の投稿を表示しています

#自宅でも考古博 29「発掘こぼれ話その4-電話に出た古墳時代の「ひとみさん」-」

当館のテーマ展示「人」のコーナーには、ある一人の女性が開館当初からずっといらっしゃいます。 その方のお名前は「ひとみさん」。 本名はわかりませんが、私たちが勝手にそう呼んでいます。 ひとみさんは今から約1,700年前の古墳時代前期に、朝来市和田山町でご活躍されていました。もちろん今はお亡くなりになり、骨になってしまっています。 ひとみさんの展示 「ひとみさん」とお呼びするようになったきっかけは、今から約30年前、ひとみさんのお墓である向山2号墳(朝来市)を発掘していた時のことです。 兵庫県に就職が決まってまもない頃の私は、初々しく、はしゃぐように発掘をしていました。 調査が進むと、古墳は一辺10mほどの方形であることが明らかになり、その中央からは大きな墓穴がみつかりました。墓穴を掘り進むと丁寧に組んだ石の蓋が出てきました。 丁寧に組まれた蓋石 図と写真による記録をとり、慎重に蓋を外しながら中をのぞくと、、、、 中には人骨が残っていて、目と目が合い(目はないけどそんな気がした)、ドキッとしたことを今でも憶えています。 ひとみさんの埋葬の様子 ひとみさんのお墓はベンガラで真っ赤に塗られた竪穴式石室で、意図的に割られた中国製の内行花紋鏡が枕元に、2本のヤリガンナ(木を削るカンナの一種)が肩の辺りに置かれていました。 石室の外には2つの土器が供えられ、玉砂利が石室周辺と棺内に敷かれていました。 手厚く葬られていて、地域の人々から信任され、愛されていたことがわかります。 赤く塗られた石室と 供えられた土器 意図的に割られた 中国製の鏡 (小型の内行花紋鏡) 発掘調査で人骨が出土すると、形質人類学がご専門の大学教授に現場を見ていただき、年齢、性別、身長、その他の身体的特徴を教えていただいています。   ひとみさんの調査の時も先生に連絡をとり、現場まで見に来ていただきました。 すると、 「この方はきゃしゃで、美人さんですね。例えるなら、黒木瞳さんのような方です。」 とのお言葉。 この時から、私たちはこの方のことを「ひとみさん」と呼ぶようになりました。 先生のお話によると、ひとみさんは ①40~60歳の熟年女性 ②身長は約150センチ ③虫歯があり、生前に上の左右

かわいいメッセージに心がほんのり・・・

6月26日の夕方、発掘ひろばの黒板に子どもたちのメッセージが書かれてますよと連絡がありましたので、さっそく見に行きました。   発掘ひろばの入口の左側に、自由に書き込める黒板があり、下の方に確かに何か書かれています。 何ということでしょう! 地元蓮池小学校の6年生から感謝の言葉が・・・。 子どもたちのかわいいメッセージに、職員一同、心がほんのり温かくなりました。  今博物館では、夏休みに向けて密集・密接にならずに楽しんでいただける体験を考えています。博物館も頑張ってますよ。  また遊びに来てくださいね。ありがとう!

#自宅でも考古博 28 「発掘こぼれ話その3-長野県大室古墳群の発掘ー」

  1969 年の冬、長野市にある積石塚で有名な大室(おおむろ)古墳群(約 500 基)の発掘に行った。積石塚というのは墳丘を石を積んで造った古墳のことで、その頃、高句麗などに多いことや、香川県の古い古墳にあることなどが話題になっていた。大学院生だった中村徹也さん(山口県教育委員会、写真の後)がその研究をしていて、今度、大室で積石塚を発掘するというので誘ってくださったのだ。  学部生の川西宏幸さん(筑波大学、前列左側)と篠原徹さん(国立歴史民俗博物館、前列右側)と私の 3 人がついていった。東京からは駒沢大学の倉田芳郎先生や東京大学大学院生の飯島武次さん(駒沢大学)等が来ていた。 発掘調査の参加者たち   われわれには 425 号墳があてがわれた。 宿舎は松代の国民宿舎で温泉も湧いて言うことなし。しかし、長野の冬は寒かった。 拳大か、それよりやや大きめの川原石を積んだ墳丘の実測は、川西、和田で担当したが、手がかじかんで長くはもたない。 30 分ほど描いては 30 分ほど焚き火にあたって体を温めた。 425号墳の測量図 ( 神村 透編 1970 『大室古墳群北谷支群緊急発掘調査報告書』長野県、大室古墳群調査会より転載)  ただ、休憩時間にはとびっきりのおやつが出た。長野名物のリンゴ。市場に出せないものらしいが、新鮮で甘くてみずみずしい国光だった。もう一つはこれも長野名物の野沢菜。お茶受けに大皿に山盛り。以後、その時の味を求めてリンゴや野沢菜を買うが、いつもがっかり。思い出の味に優るものはない。  この時初めて長野県考古学学会会長の藤森栄一さんや桐原健さん、神村透さんを見た。 (館長 和田晴吾)

#自宅でも考古博 27 「古代のインデックス」

 考古学では、出土遺物のうち、木に文字を書いたものを木簡と呼んでいます。紙やデジタルデータに囲まれている私たちにはピンとこないところがあるのですが、古代の人たちにとって、木簡は、材料が入手しやすい、表面を削ることで再利用ができるという利点があり、行政文書・荷札等、様々な用途に使われていました。また、文書用の木簡が不要になると、加工して別の用途に再利用することもありました。  用途・形態とも多岐にわたる木簡ですが、この焼き鳥の串みたいなものは何だと思いますか?古代但馬国気多郡に位置する深田遺跡(豊岡市)から出土したもので、平たい頭部に細長い軸が付いており、頭部の両面には文字が記されています。 深田遺跡の題籖軸  これは題籖軸(だいせんじく)という木簡。使い方は、軸の部分に紙の文書を巻き付けて保管するためのものです。紙の文書は書かれた面を内側にして巻き付けられますから、そのままでは中身が判りません。文書を開かなくてもすむように、頭部に文書の内容をメモするのです。今の付箋やインデックスと同じで、書類整理の基本は千数百年前からあまり変わっていないようです。  では、これらの軸に巻いてあったものはどのような文書だったのでしょう。もう一度、頭部をよく見てみましょう。若干の違いがあるのですが、表に文書の内容、裏面に年号を書いています。  一番右側のものを例にとると、「造寺米残」、「弘仁三年」(812年)とあります。造寺米とは寺の造営に支出したコメの事で、弘仁三年の残量を記した文書ということになります。寺の名前は書いてありませんが、おそらく但馬国分寺か国分尼寺の造営に使われたものでしょう。  他の題籖軸にも「官稲」・「田租」・「租未進」、「大同五年」(810年)・「弘仁四年」(813年)と見え、どうも9世紀初め(平安時代)の税金に関わる文書類を整理したもののようです。  深田遺跡からはこれ以外にも土地や稲に関わる木簡類や墨書土器が出土し、その中には他郡の名称を記すものがあることから、但馬国全体の文書行政をつかさどる役所-但馬国府-の有力な比定地となっています。   ※なお、今回紹介した題籖軸は常設展では展示しておりません。 (埋蔵文化財課  鐵  英 記)

田植えを行いました

前日の雨があがり、曇り空の田植え日和。 博物館に隣接する田んぼで恒例の「田植え」を行いました。 昨年は地元の蓮池小学校のみなさんに植え付けてもらいましたが、 新型コロナウイルス感染防止のため、 今年は子どもたちの参加はありません。 当館職員とボランティアグループ「考古楽倶楽部」のメンバー、 そして蓮池小学校の 先生方にご参加いただき植えていきます。 植える苗は、対馬赤米、壱岐黒米、 ヒノヒカリ、ハリマモチ、種子島赤米の5種類です。 2班に分かれて植え付けと苗渡しを交代で行いながら手植えします。 一人4ケ所から5ケ所に植え付けますが、 なるべく足は動かさずに上半身を左右に動かすのが早く植えるコツです。 足跡をならして植える場所をフラットにしながら後ろ向きに進みます。 苗渡しはタイミングが重要。 息のあったチームプレーでテンポよく作業が進みます。 途中雨がぽつりぽつりと降ってきましたが、 奈良からかけつけた和田晴吾館長のおかげ?か、終盤には晴れ間も見え、 なんとか植え終わりました。 例年子どもたちなら2時間以上かかるのですが、 大人がやると約1時間で終了しました。 しかし、にぎやかな声が聞こえない田植えは寂しいものでした。 収穫は10月中旬ごろ。 稲刈りには子どもたちが参加できることを祈りつつ、 これから4ケ月あまり、成長を見守ります。

#自宅でも考古博 26 「発掘こぼれ話その2ー京都府元稲荷古墳の発掘ー」

 1969年、大学3回生の夏、助手になった都出比呂志さんの指導する向日市元稲荷(もといなり)古墳の発掘に参加した。全長90m余りの前方後方墳である。  この古墳の後方部には大きな貯水タンクがあり、タンクを造る前の調査では古手の竪穴式石槨が見つかっており、報告書も出ていた。  そのためもあって、発掘は前方部に限られた。前方部からみて左側(西側)のくびれ部を丹羽佑一さん(香川大学)等、右側(東側)のくびれ部を川西宏幸さん(筑波大学)等が担当し、前方部平坦面を吉田恵二さん(國學院大學)、和田等が担当した。小林謙一さん(奈良文化財研究所)もいた。都出さんは作業員の人たちと前方部の中軸線に沿って深いトレンチを入れ、埋葬施設の有無や土層を調べていた。  葺石の検出がおもな目的の両くびれ部班は、元のままの葺石と崩れた葺石の判別に苦労していた。特に左側は真夏の西日が厳しく照りつけ、「夕日のゲットー」などと呼んで若干やけ気味になっていたが、最終的にはここから見事な葺石が発見された。  前方部平坦面では後方部よりの非常に浅いところから、この古墳を一躍有名にした特殊器台形埴輪と二重口縁壺形埴輪の一群が検出された。ここは木陰もあって、手スコ(移植ゴテ)、竹ベラ、根切りハサミ、ホウキの優雅な作業だった。木に掛かったラジオからはその頃流行のビートルズの歌が流れていた。 出土した埴輪 (梅本康広編2015『元稲荷古墳の研究』(『向日丘陵古墳群調査研究報告』第2冊)向日市埋蔵文化財センターより転載)  私には、この発掘では、特殊器台形埴輪もさることながら、葺石の根石(基底石)が縦長に用いられていたのが印象に残った。後に、宮内庁が発掘した奈良県天理市渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳で、後円部真後ろから上下2列の縦長の根石が出たのを見学し、元稲荷古墳に隣接する五塚原古墳で同様な根石をふたたび検出するに及んで、その系譜的つながりを強く感じた。これにつては立命館大学の院生だった廣瀬覚さん(奈良文化財研究所)が論文をものにした。 (館長 和田晴吾)

初夏の考古博物館へ

再開から1週間がたちました。 遺跡公園の樹々も緑を増してきました。 緑に囲まれた当館の敷地内を ぐるりと一周してみましょう。 博物館南側(狐狸ケ池)の方向から博物館を見上げると、 生き生きとしたツタに覆われた姿を見ることができます。 ツタのアーチをくぐって階段を上がると、 展望塔へ上がるエレベーターがあります。 いざ屋上階へ。 ボタンを押す前には、手指を消毒してくださいね。 エレベータ―内でもソーシャルディスタンスを保ちましょう。 足元のマークに注目です。 展望塔からの眺めです。爽やかな風が迎えてくれます。 まわりに建物がないので、天候に恵まれた日は淡路島が見えるなど、 播磨の眺望をお楽しみいただけます。 まだ大きな声でご来館をお誘いできない状況ではありますが、 お散歩コースにいかがでしょうか?  ぜひお立ち寄りください。

6月2日、開館しました!

 6月2日、約3カ月の臨時休館を終え、開館いたしました。  万全のコロナウイルス感染防止対策のもと、やっとみなさまをお迎えすることができ、うれしい限りです。しばらくは感染防止対策のため、一部使用いただけない施設や、体験いただけないものもあります。また、感染防止のため、皆さんにご協力をいただかなければならないことが多くありますので、以下のとおりご案内いたします。 博物館の出入り口は、東側のみとさせていただきますので、西側の大中遺跡公園駐車場をご利用の場合は、公園内を少し歩いていただくことになります。館内を通って西側出入り口から外に出ることはできません。 入口の両側に設置している掲示をご覧のうえご入場ください。  一部ご利用いただけないサービスを明記しております。ご希望に添えないものもあるかと存じますがご了承ください。随時更新されますので、ご来館前にHPで最新の情報をご確認ください。  感染防止のために必要な内容を記載していますので、ご協力をお願いします。  体温が37.5度以上の発熱が認められる場合は入館をご遠慮いただきますのでご留意ください。 ご入館いただきましたら、まず検温と手指の消毒をお願いします。 係が誘導させていただきます。マスクもご着用ください。 検温は顔に近づけるだけの簡単なものです。数秒ですみます。 続いて連絡票の記載をお願いします。万一、コロナウイルスに感染したと思われる方の入場が判明した時にみなさまにお知らせする大事なものです。 受付は感染防止のためにビニールシートで囲っています。すでに見慣れた光景とは思いますが、館内でご不明なことがありましたら気軽にお声掛け下さい。  しばらくの間古代体験ができません。楽しみにしてくださっている方々には申し訳ございません。  4月18日からの開催を延期していました特別展は、残念ですが開催を見合わせることとなりました。ご了承ください。  館内で休憩されるときは、人と人との距離(ソーシャルディスタンス)を保ってお座りください。  学習プラザと西側出入り口が使用できませんので、通行止めとなっております。展望台をご利用の折は、東側出入り口(ご入場口)から回ってください。

#自宅でも考古博 25「昔の人の再利用」

 「stay home」中はどのようにお過ごしでしたか?  外食もできなくなり、take outの食事を利用するようになると、気がつけばゴミの山が、、、  この機会に家の片付けをされたからでしょうか、あるいは take outのためでしょうか、自宅前のゴミ収集場所には、いつもの倍近くの量が置かれていました。  さて、時代はさかのぼること約5,000年前。当時の日本は狩猟や採集を生活の基礎としていた縄文時代でした。ナチュラリストである彼らは、縄文土器を再利用して使っていたようです。  テーマ展示室「環境」の縄文のコーナーを見てみましょう。 補修孔のある縄文土器(佃遺跡/淡路市)  この縄文土器には、「補修孔(ほしゅうこう)」と呼ばれる孔が開けられています。 土器の割れ目やひび割れの両側に一対となる孔をあけ、紐を通して綴じ合わせて使っていた痕跡です。 補修孔の拡大 割れを挟んで一対の孔を開けている  時代は下って室町時代。  守護大名の山名氏の館近くにある豊岡市入佐川(いるさがわ)遺跡から天目茶碗が見つかりました。室町時代の茶席で使われる貴重品で、漆を接着剤にして修理された跡があります。(これは展示されていません。) 漆で接合された天目茶碗 (入佐川遺跡/豊岡市)  このように、出土品から昔の人たちはものを大切にしていたことがわかります。  そういえば私たちが子供の頃、買い物に行くと、お野菜は新聞紙にくるまれ、お豆腐は、持って行った容器に入れてもらいました。「ものがなかったから」と言えるのかもしれませんが、それなりに工夫して対応してきました。 「もったいない」の心もあったように思います。  ものを使い捨てにする文化が本当に心の豊かな文化といえるのか、縄文人からの問いかけに、今の私たちはどんな言い訳をするのでしょう? (学芸課 中村 弘)

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