イベントガイドようやく完成です。
令和6年度に行う考古博物館での展覧会やイベントについて、各関係者が集まっていろいろと検討を重ねてきました。
侃々諤々(かんかんがくがく)、喧々囂々(けんけんごうごう)の話し合いの末、ようやくまとめることができました。
今後、「イベントガイド」という冊子をHPの掲載だけでなく、各施設への送付や館内での配架により皆様のお手元にお届けすることになります。
こちらは、そのイベントガイドの表紙です。近年、イベントガイドの表紙には銅鐸にQRコードを埋め込んだデザインを使用しています。令和4年度はできたての銅鐸、令和5年度は錆びた銅鐸でしたが、来年度は大きく違うところがあります。
お気づきになりましたか?
そうです。銅鐸がバラバラになっています。
これはもしかかして、厳しい話し合いのなかで職員がバラバラになってしまったことを表しているのでしょうか?
いえいえ、心配ご無用です。
銅鐸は通常そのままの形で埋められることが多いのですが、弥生時代が終わる頃にはバラバラに壊されて埋められることもありました。
ご存知の方も多いかも知れませんが、兵庫県は全国最多となる67個の銅鐸が見つかっている県で、全国総数(約520個)の1割以上を占めています。
そこで、兵庫県の博物館として、その謎について少し触れてみたいと思います。
銅鐸とは弥生時代に製作された神様を祀る祭具でした。
弥生時代の前期の終わり頃にあたる紀元前300年頃から製作されていましたが、古墳が造られる頃になると叩き壊されることもありました。
神様を祀る祭具ということは、現代に置き換えてみると仏像やキリスト像に相当するものになるのでしょう。それを叩いて壊すなんて、なんと罰当たりな行為でしょうか。
その行為のヒントとして考えられるのが、「銅鐸が壊されていた時期が弥生時代の終わりから古墳時代のはじめにかけて、つまり邪馬台国に都を置いた卑弥呼が倭国の女王として登場したころであった。」ということです。
卑弥呼が新たな時代をつくるために旧来の宗教(銅鐸)をこわして、新しい宗教(鏡)とする宗教改革だったのでは?との想像も浮かんできます。
気象学の先生よると、「この時期はアジア全体で天候不順が続いていた」といわれていて、同時に食糧危機が長期間続いていたそうです。
そのような中、いくら神に祈っても、銅鐸を祀っても食物が手に入らない。厳しい生活環境が改善していく見込みもない。
そこで、「こんな神はいらない!」と叩き割られてしまったのかもしれません。
バラバラの銅鐸が発見されるのは、こうした背景があり、弥生から古墳時代への転換期に弥生の神が人々から見捨てられたという結果なのかも知れません。
しかし、銅鐸は銅でつくられているのに、叩いて割ることができたのでしょうか?
実はこの壊された銅鐸について、当館では開館間もない、平成21年1月に「弥生のカミを殺す-銅鐸破壊実験」と題した実証実験を行っていました。
銅鐸を分析して知り得た合金比率だと、普通に叩くだけでは凹むだけで壊れません。そこで、たき火を作り、火で熱してから水を掛けるなど、いろいろ試しました。
実験の結果、火で熱して熱いうちに叩くと「ぬれおかき」のようにぼろぼろと壊れてしまうことがわかりました。
火で熱して叩き割る。そこまでした弥生人の心変わりがちょっと恐ろしいです。
以上が来年度の表紙である「壊れた銅鐸」の説明になります。
肝心のイベントの中身の説明ができなかったので、それは改めて次回にご報告します。
〔参考文献〕
石野 博信 2012年『ひょうごの遺跡をめぐる』
神戸新聞出版センター