スキップしてメイン コンテンツに移動

#自宅でも考古博37「古代播磨の心霊スポット」

  奈良時代はじめ頃の播磨地域について詳しく書かれている『播磨国風土記』には、今で言う「心霊スポット」についての記述があります。それらは「荒ぶる神伝承」「交通障害説話」などと呼ばれていて、特定の場所を行き交う人のち半分が死んでしまう、といった、今の心霊スポットよりもずっと被害に遭う確率が高く、恐ろしいものだったようです。

 

荒ぶる神の鎮祭伝承一覧(参考文献より)


 そのうち、③と④は同じ「神尾山」に接する地域に残された伝承です。
 いずれも地域住民にとっては迷惑な神ですが、「一定のリズムと具体的数値をともなう定型句が配置」されていて、それぞれの土地がなぜそういう地名になったのか(地名起源説話)について記されています。
 こうした荒ぶる神伝承は、自然災害(洪水、濃霧、鉱毒など)によってもたらされた交通の障害に対する祭祀説話であるとされています。古代には荒々しい自然現象は荒ぶる神によるものと考えられていたのでしょう。そして、①⑤以外は、結局荒ぶる神が祭祀によって鎮められ、行き交う人々に平和と安全が保障されるようになる、という点で共通しています。
 このような風土記に記された伝承はそれぞれの土地の人々によって語り継がれていました。そして上記の「荒ぶる神鎮祭伝承一覧」の例を見ると、神を祭り鎮めた者として具体的な氏族、個人名が記されている場合があるので、彼らは荒ぶる神を祭り鎮めたご先祖様であり、土地の人々にとってはその土地の開拓者といった性格を持っていたようです。だからこそ、こうした説話を語り継いできたのでしょう。
 「荒ぶる神」の舞台となったのは人の往来の多い交通の要衝でもありました。時代が下って現在、大きな道は道路法の規定によって国や地方自治体などによって管理されています。現代における「荒ぶる神」はこうした組織によって鎮められている、といえるのかも知れません。
(館長補佐 中村 弘)

<参考文献>


このブログの人気の投稿

あなたは縄文人? 弥生人?

人の顔形はさまざま! 顔の輪郭、髪の毛、眉の形、目・まぶた・鼻・口の形は各人ちがいますが、 これらのパーツも縄文人に多い形、弥生人に多い形があります さて、あなたは 縄文人? 弥生人? まずは「自分の顔をつくってみよう」 縄文顔:四角い顔、太い眉、どんぐりまなこ、二重のまぶた、広がった鼻、分厚い唇、毛深い 弥生顔:面長顔、細い眉、切れ長の目、一重のまぶた、小さな鼻、薄い唇、ひげが薄い まず自分の顔をつくってみましょう これらのパーツをつかって・・・ 自分の顔をつくってみましょう そして、左のページを持ち上げ、右の顔に被せるように折りたたみます そして開いてみると 左に顔が移りましたが、 緑 と 橙色 のパーツに 緑は縄文人 橙は弥生人 各パーツが混じっています 現代人は 縄文人的な要素 と 弥生人的要素 が混じっているのです。 中国大陸や朝鮮半島などから各時代に渡来し、混血し、今の日本人になったと考えられます 「自分の顔をつくってみよう」 は 考古博テーマ展示室「人」のコーナーにあります 是非自分の顔をつくって、試してみてください!

官兵衛は有岡城で幽閉されていなかった!?

8月9日(土)台風11号接近の中 大勢の参加者でした 「摂津国の城と官兵衛の足跡」 伊丹市教育委員会社会教育課長 中畔明日香さん 有岡城のある伊丹の変遷を主に講演! 室町時代・・・伊丹氏の活動拠点 室町時代末ごろ1573年織田信長から摂津国一職として摂津国を治める権利を与えられた・・・ 荒木信濃守村重 天正2年1574年伊丹氏を追放し荒木摂津守村重が入城 天正6年10月ごろ信長を見限る 同年12月信長軍、総攻撃するも惨敗 天正7年10月信長軍、侍町を焼く(発掘でも裏付けられた) 黒田官兵衛は 天正6年11月以降に有岡城へ、村重説得に・・・ 有岡城で土牢で幽閉されたと言われているが、城内には世話人もいたとか・・・ 土牢は確認されていない プライベートでは官兵衛と村重は懇意にしていたとか・・・ 台風接近の中 100名を超える方々が聴講されました 土牢から見た「藤」に元気づけられたとか・・・ どうも作り話らしい 文献などが少なく、史実に不明なことが多いのですが・・・との説明 判りやすく 有岡城と荒木村重と黒田官兵衛について説明いただきました 講演後、お忙しいところ 特別に解説 解説会において「摂津国の城」パネル資料が配付されました! 11月に開催される 伊丹ロマン事業へどうぞお越しください! 【お知らせ】 講演会 兵庫五国の考古学 8月23日(土)13:30~15:00 ( 入場整理券配布13:00) 淡路国の城と官兵衛の足跡 講師 金田 匡史(洲本市教育委員会) 当日受付 定員120名 無料(講堂にて) 官兵衛が活躍した時代「淡路国の城」の実態はどうだったのか 毎回、大勢の聴講者がいらっしゃいます 講堂内が定員になりましたら メインホールにてモニター席での聴講になります ご了承ねがいます こうこはくはクールスポット期間中 7月1日(火)~9月30日(火)まで 観覧料金は通常料金の 半額 です 詳しくは下記を参考に http://w...

講演会 弥生時代の兵庫②「石・鉄・銅の武器-弥生時代の兵庫-」

兵庫考古学研究最前線2022、『弥生時代の兵庫』第2弾は「石・鉄・銅の武器-弥生時代の兵庫-」と題して開催されました。 本日の講師は、公益財団法人兵庫県まちづくり技術センター埋蔵文化財調査部の園原悠斗さんです。 原始古代における武器は、弓矢、剣、刀、ヤリなどで、中でも弓矢は弥生時代から中近世に至るまで主たる武器として用いられており、特に矢の先端 の鏃(やじり)の部分の材質や形態、寸法などの違いは、当時の社会像を復元するうえで、考古学研究では欠かすことのできない注目点だそうです。この講演会では、弥生時代1,000年における武器の変容と、古墳時代に向かっての社会の変遷について、弓矢(鏃)に焦点を当てて解明してくださるとのこと。 会場は今回もほぼ満員のお客様、いつもありがとうございます。 鏃の材質には、石、鉄、青銅、木材、動物骨、牙などがあるそうですが、木材や、骨、牙などは大半が地中で朽ちてしまい、分析するほどの数がないそうです。そこで、多く出土し、ある程度原形をとどめている石、鉄、銅について分析するとのことです。 矢は、大まかにいえば、先端の鏃と木製の柄の部分(柄の後方は矢羽を設える)と、柄の先端に鏃を取り付けるための根挟みという部材でつくられています。鏃には獲物に刺さる先端部分(刃部)と、根挟みや矢の柄に取り付けるための部分(基部・茎部)に分けられ、先端の形状や基部の形状も時代や地域によって特徴があるそうです。 1 石の鏃について 石の鏃の基部の形(上図2段目及び3段目)を見ると、弥生前期は凹基式(2段目左端)が8割以上で、これは縄文時代の影響が色濃く残っているのではないかということです。武器と土器とでは縄文時代の影響の受け方に多少差があるようです。 弥生中期前葉では凸基式が出現しますが、兵庫県は近畿地方では遅い出現だそうです。前期と同じく最も多いのが凹基式で、次に平基式(2段目の左から2番目)が多いそうです。 中期中葉からは地域によって差が出始め、西播磨では凹基式か平基式、東播磨では凸基式、続いて平基式、西摂地域では凸基式、続いて短茎式(上図2段目右から2番目)、弥生中期後葉では、短茎式が一番多く、凹基式、平基式は3割以下になり、近畿地方的文化の西方波及が読み取れ、弥生後期になると、出土量が激減し、短茎式、平基式に加えて、凹基式が散見される程度となったようです。 な...

過去の記事一覧

もっと見る