(ほったん)
前回は「木製品」の保存方法について教えてもらったけれど、改めて見てもやっぱり但馬地方は木製品の出土品が多いね。
文字の書いてある木簡以外にもいろいろな木製品があるよ。
人形(ひとがた)や馬形、鳥形、舟形・・・
お皿、下駄や独楽(こま)まである。
こんなにいろいろな種類の木製品は何のためにつくられたのかな?
(学芸員)
但馬地域は木製品が良好な状況で保存される環境である低湿地の遺跡が多いので、木製品がたくさん残っていたんだよ。例えば全国で出土した人形の半分くらいは但馬からのものなんだ。これは兵庫県としても自慢できるかな。
木皿などは食器として使ったものも多いだろうけど人形、馬形などの木製品は祭祀(さいし=おまつり)用として使われていたんだ。
そういえば、6月におこなった「ひとがた流し」では木でできた人形を使っていたね。でもその時は人形だけだったと思うけど。
そうだね。人形は一年に2度、6月と12月の晦日(みそか=最終日)に執り行う大祓(おおはらえ)で使われていたんだけれど、それ以外の馬形や鳥形、舟形は穢(けが)れを背負った人形の乗り物と考えられていたんだ。
こちらの袴狭(はかざ)遺跡の人形をよく見てごらん。同じ人形でもさっき見た砂入遺跡の人形は「なで肩」だったけど、少しずつ形が違っているよね。手の有無や首から肩への切り欠きの角度によって、作られた時期の違いを見分けることができるんだよ。
へー なで肩から怒り肩に変化しているんだ。大きさもいろいろあるね。
同じく袴狭遺跡から出土した大型の人形は1m以上もあって「一人當(当)千急々如律令」と墨で書かれているんだ。「急々如律令」とはおまじないの即効性を願う決まり文句なんだけど、この人形1体で千体分の効力を期待していたんだね。
それは少し厚かましすぎるんじゃないの。
それで願い事が叶うなら「夏休延長急々如律令」と書いて流そうかな。
そういえば、このようなお祓いを行う場所は、役所の近くだったって言っていたね。
ということは、これらの遺跡の近くに役所があったというわけ?
役所は官衙(かんが)と呼ばれていて、今ここに展示されている木簡は官衙跡から出土しているんだ。
奈良から平安時代は律令制のもと、地方行政府としての国府や国分寺がそれぞれの国ごとに置かれていて、この遺跡のあたりは「但馬国」の中心地と言えるんだ。
ただ、但馬の国府の場所は途中で移転したと記録〔『日本後紀』延暦23年(804年)「喜多郡高田郷(現在の日高町)に遷(うつ)す〕されていて、移転後の但馬国府の場所は、今の豊岡市役所からは少し南に下った位置、日高町のJR江原駅近辺の祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡、深田遺跡のあるところだね。
こちらは深田遺跡の土器だけれど、左端の土器には「国當」と墨で書かれている〔墨書土器〕。これも遺跡周辺が但馬国の役所、国府に関係すると考える証拠になっているね。
いま、地図を見ていて発見したけれど、江原駅の隣の駅名は「国府駅」だ。これは間違いないね。
では、この深田遺跡から出土した木簡を読んでみてくれないかな。
え~と「租未進」、それから「大同五年」とか書いてあるよ。
「租未進」とは「税金が支払われていない」という意味なんだ。税金といってもその頃はお金じゃなくて稲で納めていたんだけれど、要するに税務署(役場)の文書ということだね。そして年代は大同五年(西暦810年)なので、平安時代にあたるよ。この時期にここに役所があったんだね。
ただ、この時期の国府の場所は分かったけれど、役所を遷す前はどこにあったのかが問題になっていたんだ。
では、次に深田遺跡から10km程、東に位置する出石町の袴狭(はかざ)遺跡から出土した、この真ん中の木簡を読んでみてくれないかな。
え~と「子調公・・・」 こんなの漢字ばかりだし、意味もわかんないよ!
この言葉は実は中国の古い本の『論語』の内容なんだ。
当時の役人は手習いとして論語の習書(しゅうしょ=何度も繰り返して書き写すこと)をしていて、平城京をはじめとする古代の役所からもたくさん出土しているんだ。だからこの袴狭遺跡には役人がいたということを示している。
その他にも国府の事務に関わる文言や、延暦23年(804年)以前の年代が記された木簡が出土していることからも、移転前の但馬国府がこの袴狭遺跡周辺にあったと考えられているんだよ。
そうなんだ。やっぱり木簡は時代を探るのにとても重要な資料になるんだね。
それにしても、昔から漢字を覚えるのは、偉い役人さんでも書いて覚えることが大事だったんだ。
よ~しボクも漢字百字練習帳ガンバルよ。